「THE iDOLM@STER」Side Story
「cousin」
初出：2006年８月13日 コミックマーケット70頒布
「へたれプロデューサーの業務日報」所収
オーディション終了後の控室の空気は、はっきり二つに別れる。
一つは歓喜。一つは落胆。
前者の空気に包まれた者――オーディションに合格したユニットとそのプロデューサーは、息つく暇もなく番組のリハーサルや諸々の打ちあわせに忙殺され、後者――健闘空しく落選したユニットとそのプロデューサーたちは、重い足どりで各々の事務所へ、あるいは次の仕事場へと向かう。
所属タレントの人数こそ少ないが、目下、女性アイドル業界で大躍進を続けている新進気鋭の芸能事務所「７６５プロダクション」所属のアイドル・天海春香とその担当プロデューサーである麻宮小次郎は、幸運にも前者のグループに属することができた。
今回、春香が受験したオーディションは、毎週、週替わりで登場する人気アイドルユニット男女三組の歌とトークを中心に構成されている音楽バラエティ番組「ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ!!」だ。
この番組、合格枠数は多いが、応募対象が幅広く設定されているため、伸び盛りの新米ユニットから活動歴の長いベテランユニットまで混在する――意外にもレベルの高い番組でもある。
しかし、かつて航空自衛隊の戦闘機パイロット候補生だった、という変わった経歴を持つ小次郎の、自衛隊仕込みの厳しいレッスンをクリアーし、「うたうたい」としての能力を急速に高められた春香は、並み居るライバルを打ち負かし、みごと出演権をゲットしたのだ。
春香と小次郎が荷物を抱えて、オーディションの控室に割り当てられていた会議室を出たそのとき、彼女の耳に懐かしさを覚える声が飛び込んできた。
「はる姉ちゃーん！」
春香がその声のした方向を向くと、廊下の向こう側から、彼女と同じ年頃の少年が駆けてくる。その少年の顔にはまだ微妙に幼さが残っているが、世間一般では「イケメン」と呼ばれる部類に属する容貌を備えていた。
春香もその少年に見覚えがあるのか、大きく手を振って応える。
「あっ、はじめちゃんじゃない。
久しぶり〜。元気してた？」
「はじめちゃん」と呼ばれたその少年は大きくうなずくと
「はる姉ちゃん、本当にアイドルになってたんだ。
母さんやおばさんから話は聞いてたんだけど……」
この会話に取り残されていた小次郎がそこで話に割り込む。
「春香、こいつ知り合いか？
というか、春香に弟がいるって話は聞いたことないけど…」
小次郎にそういわれた春香、慌てた口ぶりで
「あっ、ぷ、プロデューサーさんにはまだ話してませんでしたっけ？
この子、私のいとこで…」
その春香の台詞の後を少年が引きとって、
「はじめまして。
僕は、チャッピーズ事務所所属の大隅 一(おおすみ・はじめ)と申します。
十五歳の中学三年生です」
彼――「一」と名乗った少年は小次郎に向き直ってお辞儀をする。
「よろしく。
私は、７６５プロダクションで天海春香の担当プロデューサーをしている『麻宮小次郎』。
ところで、きみはこのＴＶ局に何か用事でも？」
小次郎がそういうと、一は電気に打たれたように
「あ、いけねぇ！
こっちも『ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ!!』のオーディション受けに来てたんだった。
早く行かないとプロデューサーに怒られちまう」
一はきびすを返してこの場を歩み去ろうとしたが、ふと何か思い出したかのように振り返り、
「何か、書くもの持ってます？」
と小次郎にたずねた。
小次郎が手帳とペンを渡すと、一は空いたページに何かを書き込み、その紙片を一枚破って春香に渡した。
「これ、俺のケータイ。何かあったら電話して、はる姉ちゃん」
春香にそういうと、一は廊下の反対側に見えている人影に向かって走っていった。
「遅かったじゃねぇか、どこまでトイレ行ってたんだ？」
そんな声が聞こえていた。
「春香」
「？」
「おまえのいとこ…『はじめちゃん』か？
おまえ、あのガキとずいぶん仲良さそうだったじゃないか」
春香は小次郎の言葉に、思い出すかのように
「あの子…はじめちゃんは、私が赤ちゃんの頃からの仲良しだったんです。
私のお母さんとはじめちゃんのお母さん、とっても仲の良い姉妹で、家も隣同士で。
だから小さい頃は、何をするのもいつも一緒だったんですよ。
私が近所の公園に遊びに行くと、いっつもはじめちゃんが後をトコトコとついてきてて……。
私はひとりっ子なんですけど、はじめちゃんのこと、本当の弟みたいに思ってて。
あ、そういえば、一緒にお風呂入ったコトもあったかなぁ…」
その言葉を聞いて思わず吹き出しそうになる小次郎。何を想像したのだろうか？
「や、やだなぁプロデューサーさん。子供の頃の話ですよ」
わたわたと手を振りながら春香がフォローする。
「そ、そうか。つい……」
「でも、私が小学校三年のとき、はじめちゃんの一家は東京へ引っ越しちゃったんです。
おじさんが転勤することになっちゃって……
それからお互いいろいろあって、いつのまにか連絡もしなくなっちゃったんですけど、まさかはじめちゃんもアイドルになっていたなんて…」
「世の中、広いようで狭いっていうのか……。っと、こんな無駄話してる場合じゃなかった。
おまえ、これからリハーサルじゃないのか？」
小次郎にそういわれて、春香は飛び上がるように
「わ、わわわ。そうでした」
「慌てず急げよ、遅刻したらカッコ悪いからな」
その夜。天海家。
「…もしもし、はじめちゃん？ 春香。
いま大丈夫？」
春香は昼間出会ったいとこ――一に電話をしていた。
「うん、いま事務所上がったとこだから。
しかし昼間はびっくりしたなぁ。はる姉ちゃんが俺と同じ番組のオーディション受けていたなんてさ。
で、姉ちゃんはどうだったの？」
「私？ 私はなんとか二位で合格。
途中ちょっと危なかったけど、プロデューサーさんがいいところで指示をくれたから。
はじめちゃんは？」
「俺は、まぁなんとか三位合格かな…ははっ」
「ふふふ…」
電話回線越しに微笑みあう二人。
その後たわいない会話が続いて、
「あ、そうだ。
はる姉ちゃん、明日番組終わった後時間ある？」
「え？ 明日？
うーん、プロデューサーさんに聞いてみないとわからないけど…、たぶん、何もなかったと思う」
「よかった。
いや、明日の『ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ！！』なんだけど…、
俺と一緒に出るウチの事務所の先輩にはる姉ちゃんの話をしたら『ぜひ会ってみたい』っていわれて。
先輩の友達で、よその事務所にいる女の子も来るみたいだから」
「はじめちゃんも一緒なら、いいよ」
春香のその返事を聞いて、一は心底安堵したように
「マジ良かった…。姉ちゃんに断られたら、俺が先輩に怒られてたところだから。
それじゃ、また明日局で」
次の日のＴＶ局。
「ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ!!」の本番を控えて、番組のスタッフが最終確認に追われているスタジオの一角で、春香は一人の男性歌手との顔合わせをしていた。
「紹介するよ。
俺んトコの事務所の先輩で『松永伸（まつなが・しん）』さん。
…って、はる姉ちゃんも名前くらいは知ってるか」
春香を連れてきた一がその歌手――松永 伸を紹介する。
一のいう通り、春香も彼の名前は知っていた。なぜならば伸は、春香たちと同じ世代――女子中高生を中心に人気のある超メジャーアイドルで、彼女のクラスメートにもファンは多い。
「はじめまして、松永伸です。今日はどうかよろしく」
折り目正しく春香に挨拶する伸。
春香も
「はじめまして。私、７６５プロダクション所属の『天海春香』と申します。
まだまだ新米で、解らないところだらけですけど、今日はどうかよろしくお願いします」
「春香ちゃん、か…。『７６５プロイチ押しの新人』って話には聞いてたけど、すごくかわいいね。
僕もこの業界長いから、いろんな娘見てきたけど、春香ちゃんはピカイチだね」
世間一般では「イケメン」と呼ばれる部類に入る容貌を持つ青年である伸にそんなことを言われて、春香は素直に
「あ、ありがとうございます！」
満面の笑みを浮かべながら礼をいった。
それを聞いて伸は、
「おい、はじめ。お前うらやましいじゃないか、こんなかわいいお姉さんがいたなんて」
と、側にいた一の頭を抱え込んでこめかみを拳でぐりぐりと。
「イテテ…、先輩。彼女、俺のいとこですよ」
と一は訂正するが、
「まぁいいじゃないか、どっちでも」
そのやりとりを見て、春香は思わずクスリと笑ってしまう。
「そうそう。こっちのはじめちゃんから聞いたと思うけど、今日の収録終わった後、みんなで打ち上げやろうと思ってるから、時間があったらぜひ来てね」
「あ、はい」
「それじゃ、また後でね」
そういうと伸は右手を上げ、春香の前から歩み去る。
…このとき、春香も一も、伸の瞳の奥底に浮かんだ何かに気づくことはなかった。
（天海春香、か…。
「田舎育ち」だって噂には聞いてたけど、アレだけスレてない女、いまどきの芸能界じゃ珍しいぞ。
あいつ、上手くやればかなりの「逸材」になりそうだな）
スタジオを出た伸は、辺りをうかがいながら男子トイレの個室に入ると、携帯を取り出してどこかへ電話をしはじめた。
「…もしもし。俺だ。
例の件だが、今夜決行する。極上の『肉』が手に入りそうなんだ。
…心配するなって。後でそっちにも、ちゃんと分け前は回すから。いつもそうしてただろ？
とにかく、今回の『肉』は本物の純粋培養だよ。俺が保証する。
おそらく、吉原の超高級ソープ十回分以上の価値はあるはずだ。
…じゃ、また今夜、いつものトコロで」
「それでは『ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ!!』、今週はここでお別れです。
また来週のこの時間まで、ごきげんよう」
司会役の俳優のこの言葉とともに、スタジオじゅうが拍手で満たされ、春香と一の出演した「ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ!!」の収録は無事終了した。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
出演者やスタッフが声をかけあう中、小次郎は春香をスタジオの袖で出迎える。
「お疲れ、春香。今日はなかなか良かったぞ」
「はい、ありがとうございます。プロデューサーさん。
…それで、あの…ちょっといいですか？」
「うん、どうした？」
「えっと、今日これから、出演したみんなで打ち上げに行こうってお話が出てるんですけど…私も行っていいですか、プロデューサーさん？
はじめちゃんがどうしてもっていうから…」
上目づかいで小次郎に問いかける春香。
小次郎はちょっと考えたが、
「うん、『はじめちゃん』――いとこが一緒なんだな。
だったら、ちょっとくらいならいいだろ。
でも、あんまりハメ外しすぎるなよ」
「…あ、ありがとうございます！」
「さてと、遊ぶのもいいけどその前に今日の反省会だな…」
「何かあったら、電話でもメールでもいいから俺に連絡くれよ。
俺は事務所で仕事片づけてくるから」
春香にそう釘をさして局を後にし、事務所へ帰るべく車を走らせていると、不意に小次郎の携帯が鳴る。
ディスプレイの発信者名は「秋月律子」――春香と同じ、７６５プロダクション所属のアイドルだ。
彼女は元々、自分が「アイドル」としてステージに立つことよりも、それを「プロデュース」することの方に関心が強かったらしく、７６５プロにも最初、事務員として入ってきたところ、タレントのコマ数不足からアイドル候補生の一人に組み込まれてしまった、という変わった経歴の持ち主である。
その律子からの電話。小次郎は道路脇に車を寄せて止め
「俺だ、律子、どうした？」
「プロデューサー？
今日って確か、今度春香が出る『ＤＡＮＣＩＮＧＢＯＭＢ！！』の収録日だったわよね」
「うん、もう撮りは終わってるんだけど…何かあったか？」
「今日の収録で春香と一緒に出ているチャッピーズ事務所の『松永 伸』って人のことなんだけど……。
ちょっと、彼についてヤな話聞いたんで」
「？」
「あいつ、出演した歌番組やバラエティで、共演したアイドルの女の子を『つまみ食い』するのが趣味らしいのよ。
『打ち上げ』とかの名目つけて女の子誘い出して、事務所の後輩を使って写真も…」
律子の話を聞いた小次郎、たまらず語気を荒げて
「なんだって！？」
「ウチはまだ被害出てないみたいけど、よその事務所じゃ何人もの女の子がアイツにやられちゃってるみたい。
なかには、それで弱みを握られちゃって、その後もアイツやその仲間から体目当てで呼び出されている娘までいるそうよ」
「……」
「どうしたの？ プロデューサー」
「そいつの事務所の後輩に、春香のいとこがいるんだ。
そのいとこが『打ち上げやる』って春香を呼び出して…」
「えぇっ！？」
今度は律子が驚く。
「マズイぞ。このままじゃ春香がウチの『被害者第一号』になってしまう。
こうしちゃおれん。春香を大至急呼び戻す。
ありがとう律子。また何か分かったら連絡くれ」
小次郎は律子との回線を切ると、今度は春香の番号が入った短縮ボタンを押す。
「社長からの緊急呼び出し」という風に言って春香をピックアップするつもりだ。
だが……
「ただいま、電話に出ることができません。
留守番電話サービスに接続します…」
帰ってきたのは無機質な機械の応対。
この業界、連絡がつかないことは仕事の成否にモロに影響する。
ゆえに、小次郎は普段、春香たちには「事務所関係者からの電話にはできるだけ出るように」と教えている。
なのに連絡がつかない。何かただごとではない事態が進行中なのだろうか…
「畜生、どうなっちまってるんだ…。
春香に何が起きているんだ……」
焦れどもいい方法が思いつかず、困惑する小次郎。
「…あれ？ 松永さん。他の女の子たちはどこにいるんですか？」
その頃、春香は春香で困惑していた。
一に連れられて「打ち上げ」の会場――都内某所のクラブまで来たものの、女性がどうやら自分ひとり、と言うことに気づいたからだった。
「あ、悪いねー。他の娘来れなくなったんだわ。
急に用事ができちゃったみたいで」
春香と一の眼前には伸だけがいる。
その伸が一に
「それと、はじめちゃん、お疲れ〜」
と軽い口調で告げ、続いて首を少し左右に振る。
すると、物陰から現れてきた数人の男。渋谷の界隈をうろついていそうな容貌の軽薄そうな男もいれば、まるでプロレスラーのようにがっしりした男もいる。
「あ、伸さん。これですか、今回の『肉』？」
「吉原の超高級ソープ十回分はいける、とか聞きましたけど…」
「わぁお、美味しそう♪」
口々に勝手なことを言っている。
その口元は皆、一様にだらしなくゆがんでいた。
そうしているうちに、男たちの中の二人――プロレスラーもどきがサッと春香の脇に滑り込み、両側から春香を抱え上げてソファーに寝かせた。
「な、何するんですか！？」
男二人に突然押し倒され、驚きの余り足をじたばたさせる春香に伸は
「いやぁね、俺、春香ちゃんがデビューした頃から密かにチェックしてて、きみと遊びたいって前々から思ってたんだけど……、
たまたま、ここにいるはじめちゃんが君のいとこだって話聞いて。
それで、コイツやここにいるお友達にお願いして、春香ちゃんをここへ連れてきてもらった、ってワケ」
そう言いながら春香の目の前に顔を近づける。
「や、やだ…。やめてください」
首を左右に振り、いやいやをしながら拒絶する春香。
だが伸はお構いなしに、
「安心しな。春香ちゃんが大人しくしてくれれば、すぐに済むさ。
俺、やさしいから」
と、その時…
「先輩、はる姉ちゃんに何するんですか！」
一が強烈な抗議の声を伸にぶつける。
「見りゃ解るだろ？ 俺は春香ちゃんと遊んでるのさ」
「だからってこんなこと…」
「うるせぇ！ お前、先輩に逆らう気か？ あぁん？」
伸は語気を荒げ、一旦春香から離れて一の顔面に張り手を食らわせると、
「後でお前にもちゃんと『分け前』はやるから、そこでおとなしく見てろ」
そういうと、男二人に押さえつけられていた春香のところへ戻る。
「さて、続きだ…。春香ちゃんはどんなお味がするのかな？」
だんだん近づいてくる伸の顔。
「わ、私…、こんなの…嫌…。
は、はじめては…やっぱり…。好きな人と…」
涙交じりになりながら抗議する春香の声に、伸はそれまでの態度をガラリと変え、
「おいおいおい。ここまで来てなに『清純派』ぶってんだオメー？
オメーだって『枕営業』やってんだろ？
ＴＶ局のお偉いさんやプロデューサー、事務所の社長に作詞家・作曲家、地方に行ったらその土地の顔役……、そんな連中の前で股開いて仕事回してもらってんだろ？
芸能界なんて所詮そんなものさ」
といい放ち、続いて
「それと、ひとついいこと教えてやろうか？
俺に抱かれたアイドルはその後、みんな大ブレイクしてるんだぜ。
昼間も言っただろ？ 俺、この世界長いからいろいろなトコロに顔利くし――いまここでオメーがおとなしくしていれば、天海春香のトップアイドルへの道は保証されたも同然、ってことよ、分かる？
っつーことで、さっさと股開くんだな。
オメーんトコのプロデューサーや、事務所の社長なんかにいつもやっている『枕営業』みたいにな！」
その時、春香の脳裏に浮かんだのは、自分の担当プロデューサー――小次郎のことだった。
（プロデューサーさんは、私にそんなことさせるような人じゃない。
そんなことしなくたって、いつもどこかから「私のためになる」仕事をもらってきてくれるから……。
だから私は、プロデューサーさんのこと、信じてる。
だから…私は…）
春香は、心からプロデューサーを――小次郎を欲した。
（た、助けて…プロデューサーさん……）
その「祈り」はすぐに通じた――ただし、受信したのは少し見当違いの方向にいた人物だったが。
「この野郎、姉ちゃんを離せ！」
一が近くにおいてあったビール瓶で、春香を押さえ込んでいた男の片方に殴りかかったのだ。
瓶が割れ、男が頭を抑えてうずくまる。
この突然の事態に、伸ももうひとりの男も春香への対応を中断して一に詰め寄る。
「おまえ、こんなことしてただで済むと思ってんのか！」
「よくも騙したな！
いくらアンタが事務所の先輩だからって許せねぇ！」
「ほぉ。で、どうするんだ？」
「こうしてやる！」
というが早いが、一は伸に殴りかかった。
「はる姉ちゃん！
俺がここは何とかするから、外に出て人を呼んできて！」
「でも…」
「俺のことはいいから、早く！」
春香は身を起こすと物陰に入り込み、震える手で携帯を開く。
ディスプレイには「着信あり 一件」の表示。
着信履歴の先頭に出ていた名前――「プロデューサーさん♪」を開き、まだ震えている指で「タ」「ス」「ケ」「テ」と打ち込む。
そして送信ボタンを押したちょうどそのとき、最初に一が殴った男がいつのまにか復活して
「何やってんだお前！」
といいながら春香から携帯を取り上げ、同時に壁際で押さえ込む。
「伸、春香ちゃん捕まえたぞ！」
男が伸に向かって叫ぶと
「よし、そのまま動けないようにしとけ。手は出すなよ」
伸はそう返事しながら、他の取り巻き連中と一緒に一を殴りつづけている。
「はる姉ちゃんに、手を出すな…」
伸に殴られていた一は、顔と上半身のあちこちにあざができ、そこかしこから血を流していたが、それでも倒れず突っかかって行く。
（ここで倒れたら、はる姉ちゃんが…）
その思いだけで伸に立ち向かっていた一だが、それでも一対多数が相手ではいかんともしがたい。加速度的にダメージが蓄積され、気力が徐々に萎えて行く。
やがて…
（だ、だめだ…。力が、もう入らない…。
はる姉ちゃん、ごめん…。
俺がこんなところに連れてきたばっかりに…）
一が意識を失いかけたその時、ドアが開いて別の大声が。
「何をしている、お前たち！」
薄目を開いた一の視界の先に見えたのは、以前、オーディションに行ったＴＶ局で見た「はる姉ちゃん」の担当プロデューサー――小次郎だった。
時は少し戻る。
春香が必死の思いで打ったメールは、小次郎の元にしっかり届いていた。
「タスケテ」
その一言で、小次郎には何が起きているのか理解できた。
その直後に律子からの着信。
その電話は、伸がいつも「つまみ食い」をするのに使っている場所を教えていた――西麻布の某会員制クラブ。
「いま、私も小鳥さんと一緒に事務所出たわ。
すぐに合流するから、無茶はしちゃダメよ」
小次郎は律子のその言葉に返事もせずに電話を切り、
「よし、待ってろ春香。いま助けてやる」
独り言にしては大きな声でそういうと、車を急発進させた。
クラブの前に車を乗りつけた小次郎。
黒服のボーイが応対に出る。
「当店は会員制となっております。会員の方か招待のある方以外の入店はご遠慮…」
小次郎はその声を無視して
「私、７６５プロダクションの麻宮と申しますが…、
ウチの天海がそちらにご厄介になっていないでしょう…かっ」
といいながら、黒服二人のみぞおちに一発打ち込み失神させる。
店内に踊り込んだ小次郎はフロアをさっと見まわしたが、春香の姿は見えない。
（ここじゃないのか？ それとも…）
と思った瞬間、店内の奥の方に
「春香、大丈夫か？」
小次郎は春香に柔らかい表情で向き直る。
その春香、着衣こそわずかに乱れていたが、外見からはっきり見えるダメージは受けていなさそう――どうやら、何もされていないようだ。
春香は小次郎の姿を認めると、表情を一気に崩して彼の胸に飛び込んできた。
「ぷ、プロデューサーさ〜ん。
私、私……、怖かったです」
小次郎も春香の背中に手を回し、優しく撫でてやる。
「ゴメンな春香。俺がうかつなばっかりに…。
でも、もう大丈夫、もう大丈夫だ…」
その声は、先ほどの戦場往来が似つかわしい声でも、レッスンやオーディションで檄を飛ばす時の声でもない――父親が娘を、兄が妹を慰めるような優しさに満ちた声音だった。
「怪我はなかったか？ ひどいことされなかったか？」
「…うん。はじめちゃんが、守ってくれたから」
そういうや否や、春香は唐突に一のことを思い出し、小次郎から離れてそちらへ駆け寄った。
「はじめちゃん！ はじめちゃん！ しっかりして！」
見れば、上半身のあちこちにコブやアザを作り、血を流している一の姿は「イケメン」アイドルとは程遠い容貌だった――しかし、それは、一が幼い頃より姉とも慕う存在である春香を守ってできた「名誉の負傷」とでもいうべきか。
もし彼がいなければ、春香は今ごろどうなっていたやら…
「は、はる…姉ちゃん。
無事だったんだね…よかった…」
「うん。プロデューサーさんが来てくれたから」
「へ、へへへ…。
こうしてると、まるで子供の頃みたいだね」
「そうね。
私が小さい頃、近所のやんちゃな男の子にいじめられていた時も、はじめちゃん、今日みたいに助けてくれたんだよね。
『姉ちゃん泣かせたら、俺が許さない』って」
「うん…。
それはそうと、はる姉ちゃん、ごめんね。
俺のせいでこんな嫌な目に遭わせちゃって……」
謝る一に春香は
「もういいの。もういいのよ……」
ささやくように語りかける。
その雰囲気に入り込めないものを感じた小次郎は
（今日のところは、この少年に感謝だな…）
そう心で思いながら、こちらへ向かっているはずの律子と小鳥に「春香が無事であること」を報告する電話を入れようとしていた。
それから数日後……。
チャッピーズ事務所社長・チャッピー北倉が、伸を連れて７６５プロを訪ね、小次郎と春香に面会を求めてきた――ただし、春香は事件後、社長・高木順一朗の配慮により実家で「休養」していたので、高木社長が代わりに応対した。
頭を丸刈りにされ、小次郎と高木の目の前で深々と頭を下げる伸の横で、北倉も
「今回の一件は、全て私の管理不行き届きが起こしたこと。松永には当面、全ての芸能活動を自粛させることにします。
もし、そちらが訴訟を含めた更なる処分を望まれるなら何なりと……」
この業界の大先輩にして、小次郎や春香の生まれるずっと前から、長年にわたり多くの男性アイドルを育て上げた辣腕プロデューサー――「男性アイドル」「女性アイドル」という分野の違いこそあれど、高木に匹敵する「アイドルマスター」である北倉に頭を下げられ、小次郎は
「北倉社長、頭を上げてください。
私どもは松永さんが真剣に反省して、『今後二度とこういうことはしない』と誓ってくれればそれで十分なんです。
天海もそれを望んでいるはずですから」
というのが精一杯だった。
「…やっぱり『アレ』が効いたようだな」
伸と北倉が帰った後、高木がポツリと漏らす。
「社長、何があったんですか？」
それを聞いていた小次郎がたずねると、
「実はあの時、律子君と音無君がとんでもないものを持って帰ってきてな…」
高木の話によると…、
あの日、春香を保護した小次郎に合流した律子と小鳥が、現場に落ちていた伸の荷物を拾って持って帰ってきたのだが、その中にはデジカメやビデオカメラ、睡眠薬、ロープ、浣腸、電動マッサージ、バイブレーター等々が見つかった。
更にデジカメやビデオに残されていた画像には、過去に彼ら一味が「つまみ食い」をしたアイドルが多数確認されたという――これだけ証拠が揃えば、彼らが春香や他のアイドルたちに何をし、またしようとしていたのか一目瞭然。
「さしものチャッピーズも、あれだけ具体的な『証拠』を突きつけられれば沈黙せざるを得ない、ってことだな。
このところ、あそこもスキャンダル続きだというしな」
小次郎は、自分の知り得ないところで、高木と北倉の虚々実々の駆け引きがあったのだろうと思った。
「ありがとうございます、社長。俺や春香のために」
「いやいや、礼なら律子君と音無君にいいたまえ。
彼女たちが、あそこでいろんなものを見つけてくれなければ、私だってここまで強気には出られなかったんだからね」
「そうですね。いずれ彼女たちにもお礼をしておきます。
ところで、これから春香の家にお見舞いに行こうと思うのですが」
「他の娘たちのスケジュールは大丈夫なのかね？」
「少しくらいなら問題はないかと」
「いいだろう。許可する」
小次郎が春香の家に着くと、春香自らが玄関まで出迎えてくれた。
「もう大丈夫なのか、春香」
「はい！ もうすっかり元気です。
明日からでもレッスン行けそうなくらいですよ」
あの事件の前と変わらない明るい口調だ。これならば問題はないだろう――明日からでも仕事に復帰できそうだが、しばらくは俺がケアしてやらなければならないな…。
小次郎は春香を見ながらそう思った。
「事務所のみんなからも、励ましの電話やメールいっぱいいただきましたから。
そうだ！ 今度事務所に行くとき、お菓子いっぱい作って持っていきますね――もちろん、プロデューサーさんの分も」
「そうか、楽しみにしてるぞ。
でも、律子や小鳥さんにもお礼を忘れずにな」
「はい！ もっちろんです」
そんなたわいもない話が少しばかり続いて
「ところで、お前のいとこ――はじめちゃんのことだけど…、あれからどうしたんだ？」
「うん…。あれから、何にも連絡ないですね」
といったその時、春香の携帯から着メロが鳴り出す。
「あっ、メール…。はじめちゃんだ」
「何といっている？ 俺にも見せてくれんか」
小次郎は春香と並んで座り、携帯の画面を見る。