「THE iDOLM@STER」Side Story
ＰＲＩＤＥ〜高槻長介の初恋〜
初出：2012年11月11日 「またまたColerfulM@ster!」頒布
「たかつきけ！」所収
「プライドだよ、プライド」
高槻家の長男・高槻長介が、そんな言葉を口にするようになったのは、姉のやよいが「アイドルのともだち」として家に連れてきた二人の乙女――「水瀬伊織」「我那覇響」と出会った、あの日の出来事がきっかけだった。
その日の高槻家は、週に一度の「もやし祭り」――もやしの炒め物が夕食のメインディッシュになる日。
いつもであれば、自分も含めた六人のきょうだいが卓を囲むのだが、その日は伊織と響が加わっていた。
やよいの話によると、昼間に事務所で「皆でご飯食べに行こう」という話になり、「それならウチに来ない？」と、二人を誘ったのだという。
「アイドル」としての仕事をするようになってから、初めて友人を家に連れてきたやよい。
手製の料理を褒めてもらって嬉しそうな表情を見せる姉を、長介は複雑な思いで見ていた。
「長介にいちゃん、食べないの？ ぼくもらっちゃお」
その時、長介の隣に座っていた弟の浩司が、隙をついて長介の取り分を奪取しようとしたので、長介は、制止の意味も込めて浩司の頭を小突いた。
小突かれて号泣する浩司を見たやよいに叱責され、立腹した長介はちゃぶ台を叩いて席を立ち、家を飛び出してしまった。
…庭にある物置。
長介は、その片隅でうずくまっていた。
弟や妹のみならず、姉の「ともだち」もいる場で、公然と姉に叱責されたこと。
そしてその姉は「長介は一番お兄ちゃんなんだから」という言葉で、自分の言い分を聞こうともしない。
――本当は、自分自身もあの時感情的になっていたことに非があるのだが、まだ小学生の彼には、それをうまく処理できる道理もない。
気持ちの持って行き場もなく、かといってきょうだいのいる居間にも戻れず、うずくまって時が過ぎるのを待つ以外に、長介には選択肢がなかった。
そこに「彼女」が現れた――姉が呼んできた「ともだち」の一人である伊織が。
自分にも兄が二人いて、似たような体験をしていると話す彼女に、長介は「家のことをいくら頑張っても姉に認めてもらえない」という、家における現状の不満を吐露した。
そんな彼に、伊織は
「逃げずに姉にぶつかれ」
「きっと家で苦労していることもあるだろうけど、それを人前で一切見せずにいつも笑顔でいる――それが、やよいの『プライド』」
「あなたにも『プライド』があるなら、『自分の力で』やよいを助けられる男になれ」
というのであった。
家では知らないやよいの顔、そして、自分たち弟妹に対する思いを知っている伊織の言葉に、長介は感銘を覚えたのだ。
事実、それから長介は変わっていた。
いままでの彼は、毎朝、やよいや母親に起こされなければ布団から出ようともしなかったのが、自発的に起きて弟妹を起こすことが多くなったし、やよいが仕事で遅くなったときにも、ありあわせの食材で料理を作って出すようになっていた。
味や出来栄えはといえば、圧倒的な経験の差があるやよいや母親にはまだ及ばないものの、やよいにとっては負担が少し減ることになる。
「ありがとね、長介。最近、お仕事で遅くなること多いから、長介に手伝ってもらうと助かるなー」
「何言ってんだよ。やよい姉ちゃんがアイドルの仕事で遅くなる分、俺がしっかりしないとな。俺にだって『プライド』があるんだし」
「ぷらいど？」
きょとんとしながら聞いてくる姉に、長介は
「な、なんでもねぇよ！ それより…」
と、答えをはぐらかすのであった。
そうして時が少し経ち、やよいの「芸能人としての『格』」も少し上がってきたそんなある月曜日、事件は起きる――。
長介たちが通う小学校の、四年生の教室。
長介のすぐ下の妹であるカスミが、クラスメートの女の子たちに囲まれていた。
彼女たちは口々に
「カスミちゃん。昨日、お姉ちゃんの出てた『生っすか！？サンデー』見たよ！」
「お姉ちゃんの『スマイル体操』かわいかったねー」
「今度、お姉ちゃんのサインもらって来てよ！」
と、カスミの姉――やよいに対する賛辞を口にしていた。
「えへへ、ありがとうみんな。今度、お姉ちゃんに頼んでみるね」
そんなクラスメートの言葉に、まるで自分のことであるかのように嬉しそうな表情を見せるカスミ。
しかし彼女はこの時、自分を取り巻くクラスメートたちの後方から発信されている負の感情に気づくことはなかった。
給食を食べ終わった昼休み。
この日、給食当番だった長介は、クラスで使った食器を返すため、級友の女子と共に給食室に来ていた。
クラス全員分の使用済み食器が入った金属製の籠を、調理場の係員が待機している返却場所に置き、グラウンドへ行こうとしたその時、長介はすぐ近くから異様な声がしているのに気づいた。
耳を済まして聞いてみると「高槻…」「調子に乗るな…」という声がする。
ただならぬ気配を察知した長介は、踵を返してその声のする側――体育館の裏手へ駆け出していった。
背後では一緒に来た級友の「高槻くん！ どこ行くの！？」という声がしていたが、長介には聞こえていなかった。
長介が現場に着いてみると――。
カスミが男女入り混じった何人かの生徒に取り囲まれ、怯えたような表情を見せていた。
「わ、私、そんなつもりじゃ…」
「じゃぁ何だってんだよ！」
「おまえの姉貴、ちょっと『ゆーめー』だからっていい気になってんじゃねぇよ、高槻！」
「『あいどるのおねえちゃん』がいるのを自慢するんだったら、今月の給食費、ちゃんと払いなさいよね？」
「『たいのう』ってやつもしてるんじゃないの？」
グループの中にいる女子生徒の一人が言ったその声に、取り囲んでいる他の生徒から笑い声も起きる。
「…そんなこと…してないもん…」
カスミは、半べそをかきながら彼らに抗議するが、取り上げるものは誰もいない。
そんな妹の姿を見た長介に選択肢はない。
「オイおまえら！ カスミに何してるんだ！」
そういいながら、早足で集団の中に強引に割り込み、カスミを他の生徒たちから分断する。
「アンタ誰？」
群れの中にいた男子生徒のひとりが聞いてきたので、
「六年一組、高槻長介。なんで妹泣かしてんだ、おまえら？」
全員に聞こえるように、長介は問い返した。
長介に問い返された生徒たちは、ほとんどが下を向いたり、視線をあさっての方向へ泳がせたりしている。
どうやら、一方的にカスミをいびっていたところに急に割り込んできた長介の剣幕に押されて、言葉をうまく紡げないでいるのだろう。
その中で、視線を返してきた一人の男子生徒が更に言い返す。
「だってよぉ、こいつ、姉貴がちょっと『ゆーめー』だからっていい気になってるから、俺たちでシメないと…」
文句を言い切らないうちに、そいつは長介にきつい平手打ちを一発もらっていた。
「痛ぇ！ 何するんだよ！」
「やよい姉ちゃんは関係ねぇだろ！」
長介に平手打ちを一発もらい、頬を押さえながら抗議する男子。
だが、長介が一喝すると、彼は黙ってしまった。
「とにかく、カスミ泣かしたら俺が承知しないからな！」
言葉を挟ませずそういうと、カスミをいびっていたグループは一様に怯えた表情を見せて解散した。
解散して方々に散る生徒の最後に、長介に一発もらった男子が彼をひと睨みしながらきびすを返した。
その左胸に「四年二組 武川剛次郎」という名札が下がっているのが、長介の目に入った。
剛次郎が校舎の角に差し掛かり、出てきた女子生徒と何やら話している姿が目に入ったが、彼は後ろにいる妹の方が気になっている。
即座に振り返り、目の端に涙をためているカスミに声をかけた。
「大丈夫か？ 怪我してないか？」
助けてくれた兄の声。それに安心したカスミは泣きながら長介の胸に飛び込んでいった。
――下の弟である浩司や浩三にしてやるように――カスミの頭をなでてやりながら、長介は事情を聞く。
朝、クラスの友達に、やよいが出ていた「生っすか！？サンデー」の話をされたこと。
やよいのサインをねだられたこと。
そうしたら、給食が終わってすぐ、クラスの男子から体育館の裏へ呼び出され、そいつを含めた五〜六人のクラスメートに取り囲まれ、口々に暴言を吐かれたこと――その一部は、長介も聞いていた言葉。
「そうか…。今度また、クラスのやつらに何かやられたら、すぐ俺に言えよ。でも、やよい姉ちゃんにはナイショだぞ？」
話を聞いた長介は、最後は声のトーンを落としつつ、カスミにそう告げた。
「うん、ありがとう…。長介兄ちゃん、かっこいいね」
カスミにそう言われて長介は照れたようにそっぽを向いて。
「まあな。プライドだよ、プライド」
そう、己に言い聞かせるように呟いたのであった。
その翌日の放課後。
長介は大慌てで下校しようととしていた。
今日は、やよいがレッスンで帰りが遅くなることを事前に知らされているので、長介が弟妹の分の夕食を作らないといけなかったのだが、学芸会のクラス発表の練習が今日からはじまっていて、その分時間を食われて遅くなったのだ。
早足で校門を出たとたん、長介は後ろからする怒鳴り声と共に肩をつかまれた。
「オイ、高槻長介ってのはオマエか？」
聞き覚えのない声の主に、いきなりフルネームで名前を呼ばれて、長介は思わず振り返った。
「誰だよ、あんた？」
見ると、長介よりも明らかに年上――中学生か高校生くらいの男が、彼の肩をつかみながらこちらを睨んでいた。
脱色されて茶色に変色した短い頭髪を後ろに流し、それを整髪料をごってり使って固めている。
詰襟らしい制服の上着は前をはだけさせてあり、中に着ている赤いＴシャツが見える。
「オマエに話がある、ちょっとそこまでツラ貸せや」
いまや漫画でしか見ることができない――前時代の「ツッパリ」を絵に描いたような風貌のその男は、そう言いつつ、長介を引きずりにかかった。
「ちょ、ちょっと待って、俺忙しいから…」
「つべこべ言うな！」
長介が抗議するが、男は一切無視して物陰に引きずり込む。
学校から少し離れた、空き家の裏手。
ツッパリに引きずられ、壁に背中から叩きつけられた長介は、痛みに顔をしかめながら
「アンタ誰だよ？ それに、俺に何の用が…」
と尋ねようとしたが、最後まで言い終わらないうちに、顔面に強烈な一発をもらってしまう。
「！」
「オマエ、昨日俺の弟ボコボコにやってくれたそうだな？」
「弟？」
「かもめ第三小学校四年の『武川剛次郎』だよ！」
ツッパリに名前をいわれて、長介は昨日見た光景を思い出した。
「そういえば、昨日カスミをいじめてたやつの中にそんな名前が…」
「そうだよ！ アイツ、おまえに殴られて『ガールフレンドの前で恥かかされた』って、泣いて帰ってきたんだぞ！」
「じゃ、じゃぁアンタは…？」
「そうだよ、俺はアイツ――剛次郎の兄だよ。弟の仇、しっかりとらせてもらうぞ！」
そういうが早いが「剛次郎の兄」を自称するその男は長介に更なる打撃を送り込んだ。
顔面。
胸。
腹。
次々に襲ってくる痛みに、長介は声を出す暇も与えられなかった。
しばらくして、男は殴っている相手――長介の服の中から一枚の紙片が落ちたのに気づいた。
打撃を中断し、拾い上げて中身を見る。
そこには、栗色の長い髪をした美少女の画像が映されていた。
「誰だコイツ。オマエの彼女か？」
長介に尋ねてみる。
「そ、それ。伊織さんの…！？」
その被写体は、やよいの「アイドル」としての友達である水瀬伊織。
そしてその紙片はといえば、長介がクラスメートのひとりに頼み込んで譲ってもらった、週刊少年漫画誌の巻頭グラビアからの切り抜きだった。
だが、男はそういうことには興味がないらしく、
「フン」
と一言いうと、足下にたたきつけて踏む。
「……踏むなよ」
男が伊織のグラビアを踏みつけるのを見た長介が低い声で言った。
「アン？」
「踏むな、って言ってんだよ！」
一声大きな声で言うと、長介は頭から男の腹をめがけてタックルをかます。
そうなのだ。
このグラビア、男にとっては取るに足らないものであったが、長介にとっては「宝物」だったのだ。
――あの日、姉が伊織を初めて家に連れてきた日。
なかなか好意的な評価をしてくれない姉に対してひそかに抱いていたコンプレックスを伊織に吐き出し、その代わりに彼女から厳しい言葉と共に「アドバイス」をもらってからというもの、長介は、伊織に人並み以上の「好意」を抱いていた――アイドルとその一ファンとして以上に、一人の「女の子」として。
もちろん、実姉であるやよいのことも応援はしているのだが、長介の個人的な気持ちは伊織の方により向いていた。
それだからこそ、長介は男が伊織のグラビアを踏みつけた行為に、伊織本人が、そして自分自身が公然と侮辱されたような怒りを覚えたのであるが…。
その行為は、当然、更なる反撃を呼び込むことになる。
先ほど浴びたのと同じような打撃が十数度繰り返され…
「こ、これに懲りたら、俺の弟に手ェ出すんじゃねぇぞ…」
その声と共に、打撃は止んだ。
上半身のあちこちを殴られ、痛む体を引きずりながら、長介は家に帰ってきた。
「た、ただいま…」
兄のただならぬ気配に、居間から出てきたカスミは悲鳴を上げた。
「ど、どうしたのお兄ちゃん？」
「な、何でもねぇよカスミ…」
そういうと、緊張の糸が切れたかのように意識が暗転、長介は玄関の上がり口に倒れ込んだ。
「…すけ、長介！」
聞き馴染みのある姉の声に、長介はゆっくり意識を解凍させた。
回復した視界には、心配そうにこちらを見ているやよいと、その姉となぜか一緒にいる伊織が見えた。
「ね、姉ちゃん。それに伊織さんも？ アイドルの仕事どうしたの？」
長介が聞き返そうとすると、やよいは返答の代わりに泣きながら彼にしがみついてきた。
「バカ…心配したんだからね！」
やよいはその言葉を繰り返すだけで、あとはもう声にもならない。
「アンタが大怪我して帰ってきた、ってカスミちゃんに聞いて、やよい、すごくおろおろしてたんだから。で、プロデューサーに連絡してレッスンを切り上げてもらって帰ることになったんだけど、やよいが心配だから私もついてきた、ってわけ」
「伊織さん……そんなことが…」
続いて、何かをいおうとした長介の意志を察した伊織は、かぶせるように
「いまは私より、やよいに何か言うのが先でしょ？」
と仕向けた。
「……ごめん。ゴメン、姉ちゃん…」
長介はそれだけ言うのがやっとだった。
しばらくして。
「長介、いったい何があったの？」
「……」
やよいに問いかけられるが、長介は黙ったまま。
「どうしたの？ お姉ちゃんにわかるように話しなさい」
姉に強い口調で尋ねられ、それでもなお口を開かない長介を見て、やよいの側にいた伊織は服の裾を引っ張る。
「？ 伊織ちゃん？」
「やよいにも言えないことがあるんじゃないかしら？ よかったら、代わりに私が聞いておいてあげるから」
「うん、わかった。じゃあ後で聞かせてね」
そういうと、やよいはそっと立ち上がって退室した。
やよいが襖を閉め、部屋を出たのを確認した伊織が、改めて長介に向き直る。
「で、どうしてこんなことになったわけ？」
伊織に改めて問いかけられた長介は、重い口を開いて、これまでのいきさつを語り始めた。
やよいの仕事――いま、７６５プロの他のアイドルたちと一緒に出ている「生っすか！？サンデー」がカスミたちのクラスでも話題になったこと。
それがもとで、カスミがクラスメートの何人かに妬まれ、一方的にいびられていたこと。
偶然、それを見てしまった彼が仲裁に入っていったんは解散したが、今日になって、その場にいた生徒の「兄」だと名乗る人物に下校中、いきなり呼び止められて一方的に殴られたこと。
――さらに加えて「自分がこっそり隠し持っていた伊織のグラビアをそいつに見つけられて踏まれ、キレて反撃したら更に殴り返されたこと」もあったのだが、さすがにそれは伊織に言えなかった。
「……そんなことがあったの？」
この間、話の腰を折らずに黙って聞いていた伊織は、長介の話が一通り終わると小さくそういった。
「どうして、そんなことを」
「俺にだって、プライドがあるから」
「？」
長介の言葉に、疑問符を空中に浮かべた伊織をじっと見ながら、彼は続ける。
「いつか、伊織さんに言われた『自分の力で、姉ちゃん助けられる男になれ』って言葉の意味、俺、ずっと考えてたんです。
姉ちゃんは女で、俺は男だから、絶対に姉ちゃんと同じようなことはできない。でも、俺にも何かやれることはあるはずだって。
そう思っていたあの時、カスミがクラスの連中にいじめられているの偶然に見ちゃって、もう黙っていられなくなって止めに入ったのはいいんだけど、結果、こうやって、姉ちゃんや伊織さんに迷惑掛けているし…」
そこまで長介が話したとき、伊織は首を左右に振った。
「結果はどうであれ、あんたはカスミちゃんを守った。そのことは、誇っていいと私は思うわ」
「伊織さん…」
「何が『正解』で何が『間違っている』か、なんてことは、この家の人間じゃない私には判断できないけど…。『その日、その時、自分にできること』を精一杯やって、その結果に『後悔』しなければ、私はそれでいいんじゃないか、とは思うわよ」
そういいつつ長介を見る伊織の表情は、プライベートに接している人間でもなかなか見られないほど穏やかなものだった。
そんな表情を浮かべながら、伊織はそっと長介の頭に手を置いて。
「えらいわね。それでこそやよいの弟、ね」
「…や、やめてくださいよ。俺にだって『高槻長介』って名前があるんですから」
真っ赤になりつつそういった長介の耳には、伊織の
「こんなことするの……アンタだけなんだからね？」
という小さなつぶやきは聞こえていなかった。
そして、それから更に十年近い月日が経った、ある日の夜。
「…まさか、私がアンタと結婚することになるとはね」
伊織は、これから自らの「夫」となる男――長介を見ながら、軽く悪態をついた。
十代半ばの頃、７６５プロの若き女性プロデューサー・秋月律子の手により、三浦あずさ・双海亜美との「竜宮小町」というユニットを組んでこの国の芸能シーンに名乗りを上げ、その後はタレント・女優として、ドラマや映画・舞台でも活躍してきた彼女だったが、明日を以って「水瀬」の姓――世界でも有数の巨大企業集団「水瀬グループ」オーナー本家の娘であったことを示すその姓に別れを告げ、戸籍上の名前が「高槻伊織」となることが既に決まっていた。
――もっとも、旧姓となる「水瀬伊織」の名は、今後も芸能活動上で名乗る「芸名」として使うことになっているのだが。
閑話休題。
「まぁいいじゃないですか。姉さんも、伊織さんがウチにお嫁に来てくれることを喜んでくれてますし、それに…」
長介がそこでいったん言葉を切ったので、伊織は黙って次の言葉を待つ。
「伊織さんは、俺の『初恋の人』でしたから。
俺が小学生の時、姉さんが初めて貴女を家に連れてきたあの日から、俺は、タレントとそのファンじゃなく、一人の『女の人』として貴女を好きになって。
そして、その想いをずっと貫き通して、貴女に受け入れてもらえて――明日からは、貴女が父さんや母さん、姉さんにカスミ、長太郎、浩司、浩三と一緒の『家族』になってくれること。それが、何よりも嬉しいんです」
伊織は長介の言葉を聞きながら、彼の笑顔に、初めて出会った少年時代の面影が残っていたこと、そして、そんな彼と一緒の「家族」になれることを、改めて嬉しく思うのであった。