第７話「The Night Before」
２月28日。
この日は３年生にとって最後の登校日である。
もっとも、高校としてのカリキュラムそのものは２学期までに全て終わっており、卒業の可否も全員決まっているので、今日の用事はといえば、明日に迫った卒業式に関する伝達事項の通知と、卒業アルバム及び卒業記念品の配布が主であった。
放課後。
「は〜や〜ひでっ！ 一緒に帰ろっ」
明日香は校門の前で待っていた早秀に声をかけた。
「おぅ、遅かったなぁ。何やってたんだ？」
「ごめ〜ん、ちょっとクラブのみんなに挨拶してたから……」
早秀に向かって、片手拝みで謝る明日香。
「じゃあ、行こうか？」
明日香は小さくうなずくと、早秀についてバス停に向かう。
「……こうやって、早秀と一緒に帰るのも、明日で最後なのね」
「そうだな……。
思えばこの３年、いや、おまえとは中学からの付き合いだから６年になるかな……。
いろんなことがあったよなぁ……」
「そう言えば、最初にあなたを見かけたのは中学の入学式の日だったわね」
「もうそんなになるかなぁ……」
早秀は６年前に思いを巡らせていた。
「そう言えばあの時、俺は寝坊したせいで遅刻寸前で、急いで走っていたらおまえ
とぶつかって……」
「そんなことも、あったわね」
「あの時、俺があそこの角を曲がるタイミングが0.1秒でもずれていたら、いま、
ここでこうしている俺はいなかった」
「そう考えると、なんだか不思議な気分……」
明日香はそういうと、遠くを見るような目をした。
「そして、明日からは離れ離れになるんだよな。
明日香は大学生、俺は浪人……」
「………………」
年明けから始まった大学入試。
明日香は第１志望だった横浜の「清華女子大学・現代社会学部現代社会学科」に合格したのだが、早秀の方はといえば、受験した数校の大学が全部不合格。１週間
前には最後に受けた「三流大学情報システム学科」にも落ち、とうとう浪人が決定
してしまっていた。
「そう考えると、この先一体、どういう顔しておまえに接したらいいのか……」
早秀の言葉はフェードアウトして行く。
しばらく天使が通って、
「早秀……。
いくら大学受験失敗したからって、そんなに自分を責めることないと思う」
「明日香……」
明日香は早秀の肩に手を置いて、
「元気出して。
どんなことになっても、あなたはアタシの好きなあなたなんだから」
そういうと、少しだけ笑って見せる早秀。
「ところで、話はちょっと変わるけど……」
明日香は話題を切り替えてきた。
「明日、卒業式が終わったら、ふたりでどっか旅行にでも行かない？」
「旅行？」
「ほら、アタシのバイトとか何とか、いろいろありすぎて、結局いままで卒業旅行
できなかったじゃない？」
実際、明日香は受験が終わったのを契機に、ショッピング街の外れにある「ぴあ
きゃろっと」というファミレスでのバイトを始めていたのだ。
「それに、さっき早秀も言ってたとおり、アタシたち、４月から別の学校に行っち
ゃうじゃない？ だから……」
そういうと、早秀は少し表情を緩めてたずねる。
「俺はいいけど……。行き先とか、決まってんのか？」
「まだ。
だから、明日式が終わったら、旅行代理店のほうに付き合ってほしいの」
「そ、そんなんで大丈夫か？」
「なんとかなるって」
明日香の楽天的すぎる発想に、苦笑するしかない早秀だった。
・・・
その夜。
明日香は、壁にかかった制服を眺めてつぶやいていた。
「そういえば、この制服を着るのも明日が最後なのよね……。
思えばこの３年間……すっごく楽しかった……。
早秀とずっと一緒にいられたし……、それに……、あいつを通じていろいろな人
に出会えたから……」
明日香は目を閉じ、この３年間に出会った人たちに想いを巡らせた。
「公くん……、シゲさん……、えみりゅん……、綾崎先生……、千恵さん……。
そして、そして……、
杉原先輩に出会えたことが、アタシにとっては最高の財産だった……。
あの人は、銀虎会に捕まって、好きでもない男とむりやり結婚させられそうになる
という大ピンチの中で、身をもって、アタシに大切なことを教えてくれた。
『人を愛する』ということの、本当の意味を……」
いつしか明日香の脳裏には、真奈美のやさしい笑顔が浮かんでいた。
そのうちに喉の渇きを覚えた明日香は、１階の台所に降りてくる。
台所に来てみると、テーブルには母親の久美がいた。
ワイングラスを前に置いてるところを見ると、どうやらいつもの「晩酌」らしい。
「明日香。眠れないの？」
小さくうなずく。
「ひょっとして、早秀くんのこと考えてたんじゃない？
無理もないわね。４月から別々の学校になっちゃうんだし」
図星なことを聞いてくる久美に、明日香は顔を赤らめて
「ママ、どうして分かるの？」
「当たり前じゃない。明日香は私がお腹を痛めて産んだ子だから。
あなたの考えていることくらい、なにもかもお見通しなの」
久美はいたずらっぽく笑うと、背後の戸棚から新しいグラスをとり出し、それに
ワインを満たして、
「明日香。あなたも、飲む？」
と聞いてくる。
「だ、だめよ。アタシまだ、未成年だし……」
明日香は一度断るが、
「いいじゃない。少しだけなら」
と久美にいわれ、グラスを手元に引き寄せる。
「それじゃ、明日香の高校卒業をお祝いして……、
乾杯」
グラスを重ねる母娘。
「さぁて、これであなたと『共犯』になったところで……。
早秀くんの話、母さんにも詳しく聞かせてくれる？」
少し顔を寄せて、聞いてくる久美。
明日香は早秀の進路――大学受験に全部失敗し、４月から浪人生になること――
を話してみる。
「そうなの……。早秀くん、大学みんな落ちちゃったんだ」
明日香はうなずき、
「それでね、別々の学校に行ったらいままで通りに会いにくくなるし……。
そうなったら、この先どんな顔してあいつに会ったらいいのか……
あいつだって、アタシが上級生になるとなったら会いにくいだろうし……」
明日香は涙が込み上げてくるのを感じながら
「アタシ……、アタシ……。
まさかこんなことになるなんて思わなかった。
このさき、こんな辛い思いするんだったら、もう大学なんか行きたくない。
卒業なんか、したくない」
半泣きになってそうつぶやいた。
久美はそんな娘のことをじっと見ていたが、やがて明日香の肩に手を置くと、
「明日香……」
とささやく。
「要するに明日香の心配って、このまま別々の進路になって、会う機会が減る新し
い環境で二人の気持ちが離れていくんじゃないかってこと？」
うなずく明日香。
「だって、大学に行ったらコンパとかサークルとか、学祭とかいろんなイベントが
あるでしょ？
もしもそこで、誰かから別の男の人を紹介されて、その人を好きになってしまったら……。
それって、早秀を裏切ることになるじゃない？
アタシ、いまそれが怖いの……。
早秀だって、予備校とか行くだろうから、そこで別のもっとかわいい女の子に出会って、その娘に惚れないって保証はどこにもないし……」
久美は明日香の訴えに、目を閉じてひとつひとつうなずく。
「明日香……。あなたは何も心配しなくていいわ」
「どうして？ どうしてママに、そんなことが分かるの？」
「私はね、あの子――早秀くんだったら、きっと明日香のことを一生守って、幸せ
にしてくれるって信じてるの。
中学のときには、いじめられていたあなたを助けてくれたし、一昨年の夏には、
命を張って、ヤクザからあなたを守ってくれたんじゃない？
それだけの実績があるんだから……。
彼、よっぽどあなたのこと好きなのね」
母親にいわれて、明日香はそのときのことを思い出した。
「そうだ。杉原先輩が銀虎会に捕まってて、助け出しに行ったとき……。
あのとき、アタシ、ヤクザの親玉にやられちゃったんだ。
それで早秀は、アタシの『仇討ち』だとかいって、ヤクザに突っかかっていって大
ケガしたんだ……」
「そして、あなたがひどい出血をしてたあの子に輸血して、生き返らせたのよね。
あの話を聞いたとき、私、どれだけ嬉しかったか……」
「…………」
「明日香が本当に、心から愛する人にめぐり会えたんだってことがね……。
私、彼みたいな息子ができるんだったら、嬉しいなぁ」
「ママ……」
涙ぐんだ明日香に久美は、
「ほらほら、そんな顔しないの。
せっかくの美人が台なしじゃない。
明日、そんな顔で早秀くんの前に出ていったら、彼、よけいな心配しちゃうわよ？」
娘の肩に手を置いてそういった。
「寝る前に洗面所で、顔を洗ってらっしゃいね」