第９話「この恋が、愛に変わる時…」
飛行機が決められた高度に達し、パイロットが操縦桿を水平に戻すと、客室内の「シートベルト着用」を指示するランプが消灯する。
「この先、気流の関係で少々揺れる箇所がございますので、安全のためシートベルトを…」
アテンダントが機内での注意事項について話をしているが、客室内の空気は安堵の色に染まっていた。
「……ねぇ早秀。この席じゃ、景色、見えないよね。
まぁ、この飛行機もキャンセル待ちで取ったんだから、贅沢はいえないんだけど」
明日香は周囲を見渡して、隣に座る早秀にささやきかける。
「……昨日から思ってたけど、おまえって、つくづく思いつきだけで行動するやつだよなぁ」
早秀は自分がいまここにいることになった事の成り行きに、半ばあきれている。
無理もない。つい24時間前までは三磯学園の制服を着ていたこの二人が、いまはさながら新婚旅行といった風体で、高度10000ｍの空にいるのだから。
「でも、そのおかげでこうやってあなたと、一緒にいられるんだから……。
去年のクリスマス、あなたが言ってたみたいに、私にとってあなたのことは、他の全てに優先するんだからね……」
明日香は早秀の腕にもたれかかり、甘えるようなしぐさでこっちを見ている。
「ま、それもそうだ……」
そんな明日香を見る早秀。視線は、あくまでも優しい。
見ると、明日香の目がとろんとしてきている。
「でも、さすがに、何だか眠くなってきちゃった……。
ゆうべ、どきどきして眠れなかったから……」
「どうして？」
「だって、これから５日間、ずっとあなたと一緒にいられるんだから……」
声がフェードアウトし、明日香はそのまま眠ってしまった。
その寝顔は、あたかもそこが自分の部屋のベッドであるがごとく、すっかり安心しきった表情を浮かべていた。
早秀はそんな明日香の肩を抱きながら、
(安心しろ、明日香。
おまえが眠っている間に、この飛行機が沖縄へ連れて行ってくれるさ……)
そうささやくのであった。
やがて、明日香と早秀を乗せた飛行機は、羽田から３時間余の飛行を終えて那覇空港の滑走路に無事タッチダウンした。
ターミナルビルの手荷物受取所。
二人が羽田のフロントで預けてきた荷物がコンベアに運ばれて出てきた。
二人がそれぞれの荷物――旅行かばんを受け取ると、明日香は自分の荷物を早秀
に押し付ける。
「はい、これ、あなたが持ってて」
自分の分に加え、明日香の分の荷物まで抱えさせられた早秀。重さに顔をしかめながら
「しょうがねぇなぁ〜」
という感じでその荷物を抱え上げる。
その明日香は、小さなポーチを小脇に抱えているのみ。
もし、この二人が数年後に本当の「新婚旅行」に行くようなことがあったとしたら、きっと明日香は、いまと同じように相手に荷物を押し付けているだろう。
・・・
それから約１時間後。
二人は今回の宿となる「ハーバーサイト沖縄」に投宿していた。
案内されたツインの部屋に入り、旅装を解く。
「ふぅ〜っ、やっと着いたね」
明日香がため息を漏らしながら言った。
「おまえ、よく言うぜ。飛行機じゃずっと寝てるし、空港に着いたら俺にばっかり荷物持たせてたくせに……」
早秀が殴るまねをしながら言い返す。だが、その口調にとげはない。
「ごめ〜ん、早秀。つい……」
防戦の構えを取る明日香。
その時、たまたま目と目が合ってお互いに吹き出す。
二人はしばらく、何がおかしいのか笑い転げていた。
そのとき、どちらかのおなかが
「ぐぅ〜っ」
と鳴り出す。
「……………………どうやら、俺たちの腹時計は正直らしいな」
早秀が苦笑しながらそういうと、
「そうね……。
じゃ、下のレストランでご飯にしましょ」
といって立ち上がる明日香。
「そういえば俺も、おまえが寝てからしばらくして寝ちまったからなぁ」
・・・
食事の後。
しばらく、部屋のテレビから流れる衛星放送の映画やミュージッククリップをＢＧＶにとりとめのない会話をしていた二人だが、やがて
「明日香、のど渇いたなぁ。何か飲むか？」
と早秀が切り出した。明日香がうなずくと、
「確か冷蔵庫がどこかに……、あった」
そういって早秀は、冷蔵庫からワインの瓶を取り出した。
明日香はそれを見て、
「えっ、いいの？ まだアタシたち……」
と、当然の質問を浴びせる。
「大丈夫。卒業証書もらっちまったらこっちのもんだし。
それに、旅の恥はなんとか……、っていうだろ？」
早秀はそういって、片目をつむってみせる。
「ふふっ、早秀ったら……」
明日香は微笑むと、二つのグラスを持ってきてそれにワインを満たす。
「明日香……、高校卒業、おめでとう」
「早秀も……。
乾杯」
グラスを重ねる二人。
「ねぇ早秀、なんだか暑いねぇ……」
お互いアルコールには慣れていない。たちまち顔が赤くなる。
見ると、明日香のまぶたは半分閉まり、とろんとした目つきになっている。
その目つきのまま、早秀に擦り寄ってくる明日香。Ｔシャツの隙間から胸の谷間が見える。
明日香は早秀の首に腕を巻きつけ、甘えるような口調で尋ねる。
「早秀……。アタシがいま、何を考えてるか、わかる？」
「……………………」
真正面に明日香の視線を浴び、唾を飲み込む早秀。
後頭部がしびれたような感じに襲われ、何もいえなくなる。
「早秀……。アタシね……。
あなたが大学全部落ちて、浪人するって聞いた時、正直悲しかった。
一昨日、学校の帰りにその話が出た時、アタシ、明るく振る舞ってたけど……。
本当は、悲しくて……さみしくて……怖くて……」
「明日香……」
「今度から、アタシが大学、あなたは予備校に行っちゃうでしょ？
大学に行ったら、アルバイトだってするだろうし、コンパだ学祭だサークルだっていっぱいイベントもあったりするし……、
もしそんなところで、あなた以上の男が現れて、その人のことを好きにならないって保証は正直、どこにもないし……。
もちろん、いまのアタシには、あなた以外の男は考えられないんだけど……、
アタシ、それが一番怖いの。
早秀だって、予備校やらどっかで別の女の子と出会って、その人に惚れるかもしれないって
思うと……。さびしくて……せつなくて……」
涙を流しながら訴えてくる明日香。
「………………」
その瞬間、早秀は言葉を無くした。
時間が止まり、周りの音さえ消えてしまう。
一瞬が永遠に思え、永遠が一瞬に……。
早秀は、自分をじっと見つめる明日香の瞳の中の「小さな宇宙」に吸い込まれるような感じを覚えた。
「早秀には、ずっとアタシの側にだけいてほしいから……。
ねぇ、早秀。
お願い………………。アタシを…………。
包んで欲しいの……。
アタシの不安を、消してほしいから………………。
ずっと大切に守ってきたアタシのすべてを、いまここで、早秀にあげる…………」
「明日香……」
「ねぇ、今度は……逃げないでね……。中学の時みたいに……」
一語一語、かみしめるように話す明日香に早秀は、
「逃げたりするもんか……。
俺はあのときの――３年前の俺とは違う。
俺が、本当に愛してるのは……、明日香だけだ……。たとえ何があっても……。
おまえのこと……、一生大事にするよ……」
と答えると、明日香の右手を取ってやる。
その手に触れると、彼はいいしれぬ懐かしさとぬくもりを感じた。
残った手を明日香の後頭部に回し、早秀は唇を重ねる。
「一生、側にいるよ。明日香……」
口づけの後、そっとささやいた早秀に、明日香は大粒の涙を流しながら
「早秀……。うれしい……。
あなたを選んで、本当によかった……」
そういって、ふたたび唇を求めてきた。
そして……、
生まれたままの姿に戻ったふたりは……、
まるで熱病に浮かされたかのように、互いの名を呼び合い……
身体を重ねながら……
一つに溶けあった……。
・・・
窓から朝の光が射し込んできて、早秀は目を開けた。
明日香は依然として眠りつづけている。
心から愛する者――早秀の胸の中で、小さな寝息を立てながら眠っている、明日
香のすべすべした背中を優しく撫でながら、早秀はつぶやいた。
「明日香……。ゆうべは、ありがとう……。
俺、いまになってやっと、おまえの全てを理解できたよ。
６年かかって、やっと……。
ゆうべ、おまえに触れて、おまえを本気で抱きしめて、
そして、おまえの『はじめて』をもらって……、俺は気付いたんだ。
明日香が、こんなにやわらかくて、こんなにあったかくて……。
そして、こんなにも懐かしいなんて……。
『もしかしたら俺は、実は明日香の中から産まれてきたんじゃないか？』
なんてことを、マジで思ってしまうくらいに……。
だから……。明日香………………。
俺、おまえのことを絶対に離したくない……。
つまらないことで、おまえを失うなんてことは絶対にしたくない……。
だって俺は、もう、おまえがいないと生きてゆけないんだから……」
・・・
「……う、う〜ん……」
明日香にとって、世界一安心できる寝床――早秀の胸の中で、彼女は「はじめての朝」を迎えた。
それに気付いた早秀、
「おはよ。明日香」
というと、小鳥が餌をついばむような軽いキスをする。
「おはよう……。もう起きてたの、早秀？」
「あぁ。
ちょっと眠れなくて、暇だったから、昔のことを思い返してたんだ。
おまえと出会ってから、６年間のことをな……」
「そうね……、あれからもう、６年になるのね……」
「思えば、おまえと出会ってからいままで、本当にいろんなことがあったよな」
「そうね。半端なドラマも顔負けよね、アタシたちの思い出って……」
二人はしばし、いままでの出来事を思い返していたが、やがて早秀が口を開く。
「なぁ、明日香……。
俺の頼み、聞いてくれるかな？」
「うん。早秀の頼みなら、何だって聞く」
明日香の返事に、早秀は彼女の正面を向き、真剣な顔つきになって切り出した。
「４年後……、になるかな？
明日香が、大学卒業したら、その時は……」
「その時は？」
「俺と……、結婚してほしい………………」
そこには、俗に「給料の３ヶ月分」するという婚約指輪も豪華なプレゼントも、何もなかったが、いまの
明日香には、早秀のその言葉だけで充分だった。
大粒の涙をこぼしながら、明日香は答える。
「うれしい………………。
アタシ、この世に生まれてきて、あなたに出会えて……、
本当によかった…………」
窓から射し込んでくる朝の光を浴びて、二人はさっきよりも長く、深い口づけを
交わすのであった……。