第51話「別離、そして……」
公は冷蔵庫から新しいジュースの瓶とつまみのクッキーを取って戻ってきた。
「先輩、お待たせっ」
そう言ってドアを開ける。
見れば、春の陽はすっかり西へ傾き、窓から射し込んでくるその光に照らされた
真奈美の姿は、なんともいい得ない美しさを醸し出していた。
真奈美が公に気付いて、頭を振る。
すると、長くてサラサラした真奈美の髪が頭の動きに連動して揺れ、それが光を
反射してきらめく。
（先輩……、天使様みたい……）
公は、宇宙船から放り出された宇宙飛行士のような感覚を覚えて、その場で一瞬立ち止まる。
公は真奈美のそばに腰をおろし、ジュースを二つのコップに注ぐ。
真奈美が聞いてくる。
「それで、お相撲のほうはどうなったんですか？」
「そうですねぇ……」
・・・
相撲大会の当日。
まわし姿になった公は土俵のそばで出番を待っていた。
土俵上での取り組みを見るふりをしながら、公は客席のほうに視線を泳がせる。
（彩ちゃん……遅いなぁ……）
そう思っているうちに公の出番が来る。
１回戦の相手は、ごぼうのようにひょろっとした５年生のやつだ。立ち合いと同
時にぶつかると、持ちこたえられずその場にしりもちをつく。３秒の決着だ。
行司役の神主から勝ち名乗りを受けると、公は頭を振って土俵の周囲に視線を泳
がせる。
（彩ちゃん、僕、勝ったよ。いたら返事して……）
だが、彩の姿はどこにも見えなかった。
２回戦は20秒、３回戦は11秒、準々決勝は５秒、そして準決勝は１分。
公は対戦相手を次々と撃破して勝ち進んでいった。
しかし、彩は一向に姿を現さない。
「彩ちゃん、どうしちゃったんだろう……」
土俵脇に控える公は、隣に座った父に尋ねてみる。
「う〜む……」
腕を組む父親。
ピリリリリ……、ピリリリリ……。
そのとき、父の懐でポケベルが鳴り出した。父は懐を覗き込むと、
「公、ちょっと電話してくる」
といって社務所の方へ消えた。
３分ほどして父が戻ってくる。
「どうしたの、父さん？」
聞いてきた息子に、父は顔をしかめて
「母さんから電話だ。
おまえのよく行ってる、長谷川さんとこの彩ちゃんが……」
「どうしたの？」
「今朝急に倒れて、病院へ運ばれたらしい」
「……そ、そんな……。このところずっと元気だったのに。
今日もこの相撲大会、応援しに来てくれるって約束してたのに…」
青ざめる公。
「なんでも、今朝になって急に発作が来たらしいんだ」
そう聞くと、公は父親にかみつくように
「病院はどこ!? ねぇ、どこにいるの？」
と尋ねる。
「緑ヶ丘の三磯市民病院だって」
「だったら、すぐに行こうよ！」
そう言った息子。しかし父は、公の肩をつかんで
「おまえ、試合はどうするんだよ？ あと10分で決勝戦が始まるんだぞ」
「そんなもん、棄権するさ。
相撲はまだ来年もあるけど、彩ちゃんにはいましかないんだ！」
その瞬間、父は公の正面を向くと、
「落ち着け！」
と叫ぶ。公は凍結した。
「さっきの電話で聴いたんだがな、彩ちゃん、おまえにに
『お相撲、頑張って』
って言ってくれって頼んでいたそうだぞ」
「？」
「……あと１試合、あと一番取れば終わるんだ。
それからすぐに病院いっても、遅くないだろ？
なぁ、公。ここはしばらく耐えろ。これは父親としての命令だ」
公はうなずく。
（……僕は、なんとしてでも勝つ。
勝って、優勝して、彩ちゃんに報告するんだ。
そうすれば、彩ちゃんも元気になるはずだ）
決勝戦。公は対戦相手をにらみつけながら、心の中でつぶやいた。
相手も負けじとにらみ返してくる。
交錯する視線が空間に熱量をたくわえ、それが臨界点に達した瞬間、
「ハッキョーイ、残った！」
行司役の神主が叫び、同時に二人は、互いに相手をめがけてダッシュする。
土俵の中央でぶつかり合う二人。
さすがに決勝まで勝ちあがってくるだけのことはあって、ものすごい力で押してくる。
公は両足を必死に踏ん張り、相手の押す力に抵抗する。
「残った、残った、残った。ヨーイ、ハッケョーイ」
だが、公の押す力より相手の押してくる力が勝っていたのか、公はジリジリ土俵
際まで押されていく。
公の足が俵にかかる。
（畜生、僕は、僕は、もう……）
その瞬間
「―――――公くん、頑張って！」
公の耳に――ここにいるはずのない――彩の声がはっきりと聞こえた。
（あ、彩ちゃん……？
そうか、僕のことが心配で……）
その瞬間、公は新しい力が沸いてくるのを感じた。
「ぬぅぉぉぉぉぉぉぉ！」
うなりを上げると、全身の力を込めて相手を押し返す公。
たちまち相手は土俵の反対側まで押し戻され、土俵下に転落した。
「主人ぉ〜！」
行司が勝ち名乗りを上げると、周囲の歓声が爆発する。
しかし、公はそれを無視してまっすぐに父のところへ。
「父ちゃん！」
無言でうなずくと、父は公を連れて神社を去る。
・・・
大急ぎで病院へ駆け込んだ公たちは、ロビーで待っていた母親に連れられて彩の
病室へ。
真っ先にドアを開けた公の目に写ったのは……、
わけのわからない機械にベッドの周囲を取り巻かれ、何本ものチューブやコード
を体のあちこちにつけられた彩の姿だった。
「彩ちゃん！」
「面会謝絶」と書かれた札のかかったドアを荒々しく開けて、公は叫ぶ。
その叫びに反応して、弱々しく体を起こす彩。
「あっ……。公くん、来て、くれたの？
お相撲……、どう……でしたか」
「勝ったよ！ もちろん、優勝だよ！」
公がそう言うと、彩は
「ごめんなさい……。応援、行けなくて……」
さらに弱々しく、それに答える。
酸素マスクをつけられているので、声が余計にくぐもっている。
その反応に、公は思わず彩に駆け寄って
「ねぇ彩ちゃん、僕も頑張ったんだから、きみも頑張って病気治そうよ。
そしたら、僕の飛行機にもいっしょに乗れるんだから！」
だが、彩はそれに答えない。
「いかん、心拍数が下がっている！」
周囲にいた医師のひとりが叫ぶと、他の医師や看護婦といったスタッフたちが
あわただしく動き出した。
「カンフル剤投与！ 心臓マッサージ急げ！」
「酸素吸入、増やせ！」
公はそんな周囲の喧騒の中、彩の右手を握っていた。
彩の耳元に口を寄せ、何かをささやいている。
「……現在、高度30000、31000、32000……。
どんどん上がってゆくよ、彩ちゃん」
「うん、分かる。私にも、はっきりと見えるわ」
「見てごらん。僕らの住んでる三磯の町が、あんなに小さく見えるよ」
「……うん」
「さぁ、しっかりつかまってて、彩ちゃん。
もうすぐ大気圏突破して、宇宙に出られるんだからね」
「………………」
彩は何かを言おうとするが、公には聞き取れない。
「えっ？ どうしたの？
彩ちゃん。聞こえないよ」
「公……くん。もう……ここで……いいの……。
私……ここで……もう……満足……だから……」
「そんな、弱気なことを……。頑張って！」
「わ、私ね……。公くん……の……こと……が……」
「何だって？」
「……だ…………い…………す…………き…………………………」
彩はそこまで言ってこと切れた。
「17時３分。ご臨終です……」
頭の上で響く医師の声が、どこか遠い世界のことのように思えた…………。
・・・
「……とまぁ、昔、そういうことがあったんですよ。先輩」
公は、いままで胸の中にしまっていたことを一気にしゃべってほっとしたのか、
軽くため息をつく。
「あの時初めて、『人が死ぬ』っていうことがどれだけ悲しいことなのか、分かった
ような気がします。
実際あの時は、１週間ほど学校に行けなかったし、食い物もろくに食べられなか
ったんです。
でも、その時に親父がこんなことを言ってくれたんです。
『いいか、公。
彩ちゃんはもうここにはいない。
でもな、彩ちゃんはな、お空の一番きれいなところから、いつもおまえのことを
見守っていてくれているんだ。神様があの子に"そうしろ"って言ったんだ』って」
しばらく天使が通って、真奈美が口を開いた。
「……あの、こんなこというと、失礼かもしれませんけど……。
きっと彩さん、最後に、幸せだったと思います……。
あなたに、それだけ想われていたなんて……」
「きっと、そうかもしれませんね……」
公は彩の最期の表情を心に思い浮かべながら、ポツリとそうこぼした。
「いま、思ったんですけど……。
この前の卒業式のとき、公さん言ってくださいましたよね。
『私のことを守って行きたい』って。
あなたがそこまで言えるのは……たぶん……」
そういいかけた真奈美をさえぎって、公が言い出した。
「あの時の悔しさを……、大好きな人を守れなかった悔しさを……、忘れられない
から……。
さっきもいいましたけど、こんなこと言えるの、先輩だけなんです、僕。
早秀にも、まだこのこと――彩ちゃんのことは話していません。
ほんと、先輩には、何でも話せる……、
やっぱり、安心できるからかな？」
公がそういうと、真奈美は公の肩に身を預け、ささやくように耳元で
「公さん……、
こんな私でよかったら、これからも、どんなことでも……。
私にだけは話してみてくださいね」
という。うなずく公。
と、その時……。
アルバムの中に貼ってあった彩の写真が輝き、ホログラフィーのようにひとりの
少女が姿を現した。
「き、きみは……？」
公がつぶやくように言うと、
「公くん、忘れちゃったの？
私よ、長谷川 彩」
その少女は、自分を「長谷川 彩」だと名乗った。
公は一瞬、名前と顔が一致せずに戸惑っていたが、やがて記憶の底にあった声の
感じから、いまの話に出ていた初恋の人――彩だと悟る。
（そういえば、彩ちゃんももし病気になんかならず、いまも生きていたとしたら、
俺や先輩と同じ年になっているはずだったんだ……）
「……久しぶりだね、彩ちゃん。
あれから……もう、９年になるかな？」
公がそう言うと、彩は少し微笑んで、
「私ね、公くんのことをお空の上からずっと見てたの。
あの日――神さまにこっちへ呼ばれてから、ずっと……」
と言う。
「そ、それじゃぁ、前に僕が、ヤクザに殺されかけた時に助けてくれたのは……？」
公が質問すると、彩はコクッと小さくうなずく。
「あのときね、私、神さまの言いつけを破ってあなたを生き返らせたのよ」
「どうしてまた、そんなことを……」
「だって……、だって……、私……、
公くんに、まだ私のいるところへ来てほしくなかったから……。
公くんの好きなそのひとと引き離して、私と同じ目にあってほしくなかったから
……」
彩は真奈美を見ながら、泣き出しそうな顔で話しつづける。
「彩ちゃん。それじゃぁ、杉原先輩のことも知っていたとか？」
コクッ。
「見たところ、とってもやさしそうで、すてきなひとですね。
こういうひとだったら、公くんが好きになるわけも、よく分かるの」
そういうと、彩は真奈美に向きなおり、
「真奈美……さん……」
「はい？」
「私……、いままで……公くんのこと……、ずっと見守ってきたんですけど……、
あなたがいるのなら、もう、私は必要ありませんね……。
公くんのこと……よろしくお願いします……」
そういった彩に、口を挟む公。
「おい、いったいそりゃどういうことだよ？」
その言葉に、彩は公の方を向くと、
「ごめんなさい……。
私……もう……、私のいるべき世界に……。
お空の、一番きれいなところに……帰らないと……」
悲しそうな顔でそう告げた。
「彩ちゃん、待ってくれ！
俺、もっときみと話したいことが……」
手を伸ばして叫ぶ公。
「公くん。私の分まで、そのひとを幸せにしてあげて……。
私からのお願い……」
そういった彩は、既に下半身が霞んで消えかけている。
「公くんには、いつでも会えるから……」
「待てっ、待ってくれ！」
そう叫ぶ公の声もむなしく、彩の姿は霞んでいく。
彩の姿が消滅すると同時に、部屋に閃光が走る。
公と真奈美は、原子爆弾が炸裂した時の閃光を直視したようなショックを覚えて
その場に倒れた。
・・・
「……おい、起きろよ。公！」
顔面を引っぱたかれる痛みを覚えて、公は目を覚ました。
「………………？ あ、兄貴？」
半分眠っている意識のまま、兄に問いかける。
「……『兄貴？』じゃねぇだろ、バカ！
なんだっておまえ、あんなところで真奈美ちゃんと雑魚寝してたんだ？」
「俺にもわかんねぇ……。
俺のアルバムいっしょに見てたら、急に部屋がまぶしくなって、それで……」
そこまで言いかけて、電撃に打たれたように体を震わせる公。
「先輩は？」
「あぁ、あの子なら単に気を失ってるだけだ。
いまは布団敷いて、親父の部屋で寝かせてある。
まぁ、明日の朝になったらちゃんと起きてくるだろう。
あぁそれと、真奈美ちゃんの家にはちゃんと連絡して、許可をもらってあるぞ。
『今日はここで休ませる』って。
明日、ちゃんと送っていってやれよ」
本来なら今夜の晩飯は公が作ることになっていたのだが、人事不省になっていたので飯が作れず、やむなく祐一が、近所のコンビニに弁当を買出しに行くことに。
公は父親の部屋をのぞきこむ。真奈美は依然眠りつづけていた。
公は片付けられていたアルバムから彩の写真を取り出し、眠っている真奈美と交互に見比べながらつぶやく。
「……さっきはありがとう、彩ちゃん。
俺、きみのおかげで、ずっと心につっかえていたものがとれたような気がする。
そうだよな……、いまの俺には、先輩がいるんだものな……。
こんなにやさしくて、こんなにあったかくて、きれいなひとが……。
だから俺、彩ちゃんに誓うよ。
きみの分まで、先輩を幸せにするって……」
その時、公には、写真の中の彩が心なしか、微笑んだような気がしていた……。