第54話「ぶっとび！ 猛特訓(前編)」
土曜日の朝。
バスを降りた公に、声をかけてきた少年がいた。
「オッス、主人」
「オゥ、精が出るなぁ、沖田」
公が声をかけたその少年は、名を「沖田宗次郎」という。部活は野球部だ。
公とは、３年のクラス替えで同じ組になっている。
「あぁ、今月の末にはきらめき高校との対抗戦があるからな。
いまから走り込んでおかないと……」
沖田は息を切らしながら、公に返事した。
彼の話に出てきた"きらめき高校"は、三磯市の南隣「きらめき市」にある学校だ。
三磯学園とこことは、毎年４月の末に全運動部が参加する「対抗戦」を行っている。
「なんとしてもここで勝っておいて、甲子園に弾みをつけたいからな。
今年こそは……」
沖田がそう言ったその時、次のバスが停留所に滑り込み、生徒たちを吐き出した。
その中の一人が声をかけてくる。
「おはようございます、宗次郎さん。
いま、着いたのですか？」
「あっ、美由紀……」
公がその声に振り返ると、二人の背後には栗色の髪に白いカチューシャをつけ、
細いフレームの眼鏡をした理知的な顔立ちの少女がいた。
その少女は、公や沖田と同じクラスの保坂美由紀である。
公は沖田と美由紀を交互に見比べると、何やら納得したような顔で
「なぁんだ。沖田と保坂さんって、そういう仲だったんだ？
いや、邪魔して悪かった。
俺はまだ、馬に蹴られて死にたくはないから、この辺で失礼するよ」
といって、足早に学校へ向かっていった。
「あ、おい。ちょっと待てよ……。あ〜あ、行っちまいやがった」
沖田が無念そうにそう言うと、美由紀は
「そう思われても、仕方ないと思います。
だって、私たち……」
フェードアウトしながらそう言った。
「何か言ったか、美由紀？」
「いいえ、何でもありません……」
・・・
放課後の鳥小屋。
「……先輩、主人先輩」
公は誰かに服を引っ張られた。
「？」
振り返ると、公について鳥小屋に入ってきた１年生部員――小野坂が外を指さして
いる。
「表に誰か来てますよ」
公がその方向を見ると、胸元まであるお下げの髪を太い三つ編みに束ね、丸眼鏡
をした女の子が、こっちを覗き込んでいる。
「……き、きみはこの前の……李さん？」
「どうも、主人はん。
ウチは２年やさかい、なかなか会いにいかれへんかって……かんにんや」
その娘――先日、神戸のある女子高から「国内交換留学」でこの学園にやってきた
李紅蘭――は、
「あっ、そうそう。
これからウチのこと呼ぶとき、『紅蘭』でええで。
ウチ、あんまり気取った言いかた好きやないから」
と続ける。
公はうなずくと、
「じゃあ、俺のことも『公さん』でいいよ、紅蘭」
と言い返した。続けて、
「ところで、今日は何の用なの？」
とたずねる。
「あぁ、忘れとった。
ウチ、今度こっちで科学部にお世話なることになったんで、ご挨拶に。
ここ、部活が必修なんやろ？」
「うん。
……そっか、紅蘭って、実験とかそういうのが好きなんだってね。早秀に聞いたんだ」
「そや。ウチのおとんが神戸の大学で物理学の講師やっとってな」
そこへ、鳥小屋に入ってきた明日香が割り込んでくる。
「そうそう、ここへ初めて来たときも、何か変なバイクに乗ってきてたわね」
「あぁ、あの超電導バイクやろ？ あれ作るの、けっこう苦労したんやで」
「あんなの作るのも大変そうだけど、よくあれで公道を走れたよね？」
公が当然の質問をぶつける。すると紅蘭は、
「あぁ、あんなんチョロイチョロイ。
陸運局のデータベースをちょちょちょいのちょいってな……」
と、腕を組んで自慢げにいった。
公と明日香はそれを聞きながら、
（……この娘、なんかちょっと怖い……）
（一歩間違えたら、「世界征服」とかマジで言い出しかねん……）
同じ気持ちを抱いていた。
・・・
月曜日のＨＲ。
担任が出欠を取っている。
「沖田くん……、
あれ、今日は沖田くん、お休み？」
教室にどよめきが起こる。
というのも、沖田はこの学園に入学以来、ここまで無遅刻・無欠席の記録を更新
していたからである。
「珍しいよな、あいつが休むなんて……」
早秀が話しかけると、公は美由紀を指して、
「あとで保坂さんに聞いてみようぜ。
あの娘なら、ひょっとしてなにか知ってるかも……」
「どうして？」
「実はなぁ……」
と、昨日の朝のことを耳うちした。
「へへぇ、それはいいことを聞いた。
よし、メモしておこう。ひょっとしたら何かに使えそうだ……」
早秀はそういうと、愛用のメモ帳に沖田と美由紀に関することを書き加えた。
昼休み。学食。
公と早秀が、定食のＡランチ――豚の生姜焼き――が載ったトレイを持って座る
場所を探していると、空いているテーブルに美由紀が座っているのが見えた。具合
のいいことに、美由紀の周りに人はいない。
「ここ、いいかな？」
早秀が美由紀に話しかける。
「どうぞ……」
美由紀の返事は弱い。
「………………」
ずっと黙っている美由紀に、公が話を持ってくる。
「そう言えば、保坂さん」
「？」
「沖田……今日休んでたみたいだけど……。どうしたのかな？
いや、保坂さんなら、ひょっとして何か知ってるんじゃないかって思ってね」
そう言われて、美由紀は
「主人くん、ひょっとして……私と宗次郎さんのこと……？」
「なんとなく分かるよ。昨日のあいつと保坂さんを見ていたら」
公のその言葉に真っ赤になると、美由紀はぽつりぽつりと話し始めた。
「……えーっ、食中毒ぅ！」
「しーっ、声が大きすぎます」
美由紀は思わず、口にひとさし指を当てた。
「私のお友達が野球部でマネージャーをしてまして、その子から聞いたんですけど
……。
なんでも、この前の土曜日、野球部のOBだという方からお弁当の差し入れがあったんですって。
それを食べた部員の人たちが、後の練習で急に『お腹が痛い』って訴えて……」
「それで、沖田の具合は？」
「他の皆さんは、日曜には治ってたんですけど……。
宗次郎さんと……、あと、島田くんは……病院の方に……」
聞きなれない名前を聞いて、早秀はたずねる。
「誰だよ、島田って？」
「部活で、宗次郎さんとバッテリーを組んでる方です」
「それで、沖田には面会できるの？」
公が聞くと、美由紀は小さくうなずいた。
「放課後、あのひとのお見舞いにいってこようと思いますので……」
「じゃぁ、俺達も一緒に行くよ。
話聞いちまった以上、ほっとけないから」
「……ありがとうございます。
それじゃ、部活が終わったら門のところで」
病院。
「……宗次郎さん。具合の方はいかがですか？」
美由紀が声をかけると、沖田はベッドから弱々しく身を起こして、
「先生の話だと、体力が落ちているからもう少しかかるらしい。
……下を見ても、１ヶ月は入院だ」
残念そうにそう言った。
「島田もやられているし……、この分だと、２週間後のきら高との対抗戦、とても
間に合いそうにない……。
このところ、うちのチームもいい調子で来ていて、今度こそ念願の１勝ができる
チャンスだったのに……」
唇をかみしめてうめく沖田。
「沖田……」
公がそういうと、沖田は思い出すように話し出した。
「主人……、丹羽……。
俺の話、聞いてくれるか？」
二人がうなずくと、沖田は枕元に立つ美由紀に目配せをして、話しはじめる。
「こないだ、主人は感づいていたと思うけど……、俺と美由紀は、幼稚園の頃から
の幼馴染なんだ。
保坂のうち、呉服問屋をやってて……、俺の母さんは、そこで住み込みの店員を
やってるから……。
それで、美由紀には話してるんだけど……、
うちの野球部、実は対外試合69連敗中なんだ。
西東京予選、秋季大会はもとより、きら高との対抗戦やよその学校との練習試合
も含めて、この10年で１勝も上げていないんだ……」
「10年間で……」
「69連敗……!?」
公と早秀は、空中に疑問符と感嘆符を浮かべる。
「俺、この学校に入って最初に出た試合――１年の時の地区予選１回戦でのこと、いま
でも覚えている……。
あの時も相手はきらめき高校。０−53の５回コールドだった。
それだけボロ負けしたというのに、先輩たちといったらヘラヘラ笑ってて……。
ベンチの中でゲームの話やら、試合の後にカラオケだとかナンパに行く話とか、
平気な顔してやってたんだ。
俺は『こんな先輩たちについていったら、負け犬根性がしみついてダメになる』と
思って、俺たちを見ていてくれた近藤先輩ってひとや同じ学年の仲間たちと一緒に
『新撰組』っていうグループを作って先輩がたに抵抗した。
最初の頃は、他の先輩たちからいろいろ妨害されたけど……。みんなの結束と、
ここにいる美由紀の支えで……、なんとかここまでやってこれた」
「……………………」
突然名前を呼ばれて、美由紀は顔を赤らめる。
「だけど、新学期になって、顧問の松平先生が『理事会からの話』としてこんな話を
持ってきたんだ。
『今度の試合で負けたら――70連敗になったら、野球部は廃部だ』って」
「なんだって？」
公と早秀は、病院には似つかない叫び声を上げる。
その声を聞いて、美由紀が口に人差し指を当てるしぐさをする。
「……こんな野球部だから、新入部員もろくに入ってこないし……。いまの野球部、
俺と島田を入れて10人しかいないんだ……。
そして、俺と島田は対抗戦を前にしてこの体たらく……。
畜生……。高校３年間の野球が、こんな形で終わるなんて……」
拳を握りしめてつぶやく沖田。
その拳には、涙が落ちている。
「沖田……」
つぶやく公と早秀。
そして、眼鏡を取って涙をぬぐう美由紀。
病院からの帰り道。
「沖田はあんなこといってたけど……。
おまえ、本当にやるのか？ 野球部の助っ人」
早秀の質問に、公は前を向いたままうなずく。
「あそこまで話聞かされたら、やらにゃしょうがないだろ？
同じ廃部になるなら、試合やって、全力出しきって廃部になったほうが……」
「……おまえに聞いたのが愚問だった」
呆れるしぐさの早秀に、今度は公が聞いてくる。
「で、おまえはどうする？
おまえがやらないっていうんなら、俺は俺で別のやつに当たってみるけどな」
早秀は１・２秒考えていたが、やがて手を頭の後ろに組むと、
「おまえがその気なのに、俺が無視していい道理があるかよ？
なにせ、俺とおまえは、あの杉原先輩をめぐる銀虎会との戦いで一緒に戦った
『戦友』だもんな……」
その同時刻、ここからそれほど遠くない杉原邸の一室で……、
リルケの詩集――去年のクリスマスに想い人の公からもらったもので、真奈美の
いまの愛読書になっている――を読みふけっていた真奈美が
「クシュンッ！」
と小さなくしゃみをしていたことに、公と早秀は気づいていなかった……。
閑話休題。
「あっ、主人はんに丹羽はんやん？
どないしたん、そない暗い顔して」
「紅蘭？」
公たちは突然、紅蘭に声をかけられた。
「実は…………」
公はさきほど病院で聞いてきた話――野球部のピンチと、それに向けて公たちが
助っ人を志願すること――を紅蘭に聞かせる。
公のその話に、一つ一つうなずく紅蘭。
やがて顔を上げると、
「よっしゃ、そういうことやったらウチに任せとき。
短期間で力つけて、その対抗戦とやらに間に合うようにしたるさかい」
そう言い放った。