第56話「ガッツだぜ！ ベースボーラー魂」
……その後、試合は投手戦の様相を呈してきた。
三磯学園の先発・公は初登板ながら、バックの好守備にも助けられてきらめきの
強打線を次々と打ち取り、３回を終わってまだ一人の走者も塁には出していない。
一方、きらめき高校の先発・蛯田も、さすがに甲子園経験者だけのことはある。
持ち前の投球術を駆使して三磯打線を無得点に押さえ込んでいる。
途中、三磯学園も早秀の捨て身のデッドボール(？)などでチャンスを作ってはいたものの、その後
がどうにも続かない。
４回表・きらめき高校の攻撃。
公はこの回、先頭の１番打者・中田をピッチャーフライに打ち取っていた。
「……どうやら、ウチの特訓は無駄やなかったみたいやね」
明日香と真奈美の後ろから声がかかる。ふたりが振り返ると、そこには太い三つ
編みの髪をお下げにし、細いフレームの丸眼鏡をかけた娘――紅蘭がいた。
「紅蘭！ あなたも来てたの？」
明日香が声をかけると、
「うん。ウチ、公はんと早秀はんの特訓の成果が気になったさかい……。
なんせ、あのふたりはウチが仕込んださかいにな」
「えっ、それじゃあ、早秀がアタシに会ってくれなかったのって……」
「そや。この試合のために毎日特訓しとったんや」
紅蘭は明日香の目が曇ったのを見ると、
「明日香はん。ひょっとして、早秀はんはあんさんの……」
コクッとうなずく明日香。
「せやったらそうと早ぅ言うてくれたら……。
ホンマ、かんにんな。早秀はんがあんさんのコレやってこと露知らず、早秀はんのことを
引っ張りまわして」
紅蘭が謝ると、
「ううん。謝らなくていいの。
あなたのおかげで、早秀……」
明日香はそういうと、キャッチャーマスクとプロテクター・レガースに身を固め
た想い人――早秀を見る。その早秀は立ち上がると、自分に向き合っている他の８
人の味方選手に向かって、
「ツーアウト、ツーアウト。しまってこー！」
と、あらん限りの声を張り上げて叫んでいた。
「あの……星野さん……」
「？」
「その方は……？」
肩をつついて尋ねてきた真奈美に、明日香は向き直ると、
「あっ、先輩には紹介まだでしたよね。
この子は、今年うちに転校してきた李紅蘭ちゃん」
と紹介する。
「はじめまして。ウチ、『李 紅蘭』ていいます。
ウチのこと『紅蘭』って呼び捨てでええよ」
「紅蘭……さん……ですか？
は、はじめまして……。私……杉原……真奈美……って、いいます……」
「へぇ、あんさん『真奈美はん』っていうん？ ええ名前やねぇ」
そうこうしているうちに攻守交代。
肩で息をしながらベンチへ引きあげてくる公を見て、真奈美はつぶやいていた。
「公さん、あんなに疲れて……」
もともと公は急造ピッチャーである。
いくら紅蘭の特訓があったとはいえ、相手
は甲子園レベルの選手たち。打順がひと回りすれば、投球パターンを覚えてしまう。
それでも公が、ここまでノーヒット・ノーランを続けられているのは、バックの好
守備があってのことなのだ。
（私、公さんの力になってあげたい。でも……どうやって……）
もどかしい思いに身をよじらせる真奈美だった。
・・・
そして５回表。ついに公が捕まった。
この回、先頭の福田が右中間へ二塁打を放つと、続く５番・松永も俊足を生かし
て内野ゴロをヒットにし、ノーアウト１・三塁と先制のチャンスをつかむ。
「タイム！」
ここでタイムがかかり、内野陣がマウンドの周りに集まる。
「主人。ここまでよく頑張ってくれた。
あとは俺が投げるから……」
キャプテンの土方が公の肩を叩く。しかし公は首を横に振って、
「いや。このまま投げさせてくれ」
と拒否のかまえ。
「しかし、おまえ……」
土方がそう言いかけたとき、
「三磯学園野球部のエースは俺だってこと、忘れちゃいないか？」
と声がした。
振り返ると、病院にいたはずの沖田と島田が、ユニフォームに着替えてこちらへ
歩み寄ってくる。美由紀の姿もある。
「沖田、おまえ、体はもういいのか？」
以前からいるチームメイトが当然の質問をぶつけてくる。
「部がなくなるかどうかの瀬戸際だっていうのに、おちおち寝ていられるかよ」
「そ、そうなんだな。野球部がなくなったら、ぼ、ぼくたち……」
島田もそう言っている。
「すみません、キャプテン。
この二人、どうしてもって聞かなくて……」
美由紀が頭を下げるが、土方は
「頭上げなよ、保坂。
むしろ地獄で仏だったんだから、俺たちには」
ととりなす。
「ま、そういうことだ。
沖田たちもこうして来てくれたんだし、主人も丹羽も、あとは俺たちに任せて、
ゆっくり休んでくれ」
土方はそういうが、公はまた首を横に振って
「でも、この回だけは続けさせてくれないか？」
と頼み込む。
沖田と島田がベンチへ引き上げ、内野陣がそれぞれの守備位置に戻ってプレーが
再開された。
続くバッターは６番の横平。チャンスに滅法強い中距離バッターである。
公が横平に放った４球目。打球はショート・原田の真正面へ。まず原田が二塁の
永倉へトスして１アウト、間髪入れずに土方へ送ってダブルプレーが成立。
それを見て、三塁走者の福田がホームへ突っ込んできた。気付いた土方は、間髪
入れず早秀に送球。
早秀は土方からの球をがっちりつかむと、すぐさま腰を落として、福田の方へと
振り返る。
福田が右足を伸ばして滑り込んでくる。
その時、一塁側にいた明日香は両手を胸の前で組み、早秀のために祈っていた。
（早秀……お願い……間に合って……！）
「させるかァ！」
早秀が叫んだ瞬間、彼は突っ込んできた福田と激突する。
時間が止まった……。
時間にしてほんの０コンマ数秒後、見ていた審判は右手を高く上げ、
「アウトォ！」
トリプルプレーが成立。一瞬にしてチェンジだ。
他の選手がベンチへ走り出す。それに一拍遅れて立ち上がってきた早秀。
それをいち早く視認した公が駆けよって来る。
「おい早秀、大丈夫か？」
「あぁ。俺の体は特別製だからな。
なぁ、明日香！」
早秀は一塁側スタンドにいる明日香の方を向くと、左胸――心臓のあたりを押さ
えながら明日香にウィンクをしてみせる。それに気付いて赤面する明日香。
「？」
その意味がわからない公には、首を傾げることしかできなかった。
５回裏の攻撃は、その早秀から。
（さすが甲子園いっただけのことはある。まともなやり方では打てん……）
打席に立った早秀は、マウンド上の蛯田をそう分析していた。
実際、早秀は前の打席は、内角すれすれに来た球をオーバー気味に演技してデッドボールに「してもらった」くらいだから。
（さぁて、今度はどんな手で……）
そういってるうちに蛯田は足を上げ、投球態勢に入った。早秀はその初球を叩く。
三遊間へ転がったボールはショートが捕って一塁へ。
一塁ベースへ突っ込む直前、早秀は一塁で構えている横平に向かって、
「あっ、あんなところにでっかいトンカツソースが！」
と、三塁側――きらめきベンチを指差して叫ぶ。
これで横平は一瞬反応が遅れ、送球をそらしてしまう。
その間に早秀は滑り込む。
「セーフ！」
審判の声を聞きながら、ニヤリとする早秀。
「どうだこの野郎、『頭脳プレイ』だぜ」
そして次のバッターは公。だが、彼はここまで２打席２三振。
「公さん、頑張って！」
バットを持ってバッターボックスに向かおうとした時、公は真奈美の声をはっ
きりと聞いた。
振り返って見ると、真奈美はこちらを向き、両手を胸の前でしっかり組み、祈るようにこちらを見ている。
公にはその姿だけで充分だった。もう一度バットをきつく握ると、力強くうな
ずいて打席へ向かった。
公は１球目から振ってきた。ファール。
２球目、３球目もファール。公はひたすらに粘る。
そのやり取りが10球目まで続き、蛯田は神経を苛立たせる。
（くそ、いい加減にしやがれ。どこまで粘ったら気がすむんだ？）
蛯田が内心でそう叫びながら放った11球目。絶好のコースだ。
公はフルスイング。打球は三塁手の真正面へ。
早秀が塁を飛び出していることに気づいた土方。グラウンドに向かって叫ぶ。
「戻れ、丹羽！ ゲッツーになるぞ！」
早秀がそれに気づいて走るスピードを落としかけた瞬間、バチンッ！ と皮膚
をひっぱたくような音がする。次の瞬間に振り向くと、手を押さえてうずくまる
三塁手とそのはるか後方へ転がっていくボールが見えた。
それに気づいた早秀は再加速し、二塁・三塁を次々に蹴ってホームへ突っ走る。
この間に外野がボールに追いつき、バックホーム。
低い弾道を描いて早秀を追ってくるボール。距離は徐々に縮まってくる。そし
て前方には、腰を落としたキャッチャーが待ち構えている。
（あぁ、神様！ お願い、間に合って……）
見ていた明日香には、その時間が永遠のように感じられる。
頭から滑り込む早秀。キャッチャーミットにボールが収まり、キャッチャーが
覆い被さってくる。二人がもつれ合い、一瞬土煙が立ち上る。
しばしの静寂。
「セ……、セーフ！」
主審が両手を水平に広げて叫ぶ。早秀は覆いかぶさってきたキャッチャーの
タッチをかいくぐり、一瞬早くホームプレートにタッチしていたのだ。
三磯学園の先制点だ。一塁側で歓喜が爆発する。
「ヨッシャァ！」
早秀は立ちあがると、明日香の方だけを――意識の上で――向きながら叫んだ。
「よし。山崎、三塁代走だ！」
監督の松平は、ベンチに控えていたただ一人の控え選手・山崎に、三塁へ進ん
でいた公の代走を命じた。
・・・
この後のことは、簡単に述べるにとどめたい……。
あの後さらに１点を加えた三磯学園は、公たちに代わった沖田・島田のコンビ
がきらめき打線を抑え、２−０のまま９回表・２アウトを迎えた。
「あとひとり！ あとひとり！」
三磯側のベンチから上がる声の中、きらめき高校の打者・中田は既に２ストラ
イクまで追い込まれていた。
「畜生。今日は俺の三振で始まって、俺の三振で終わるのか!?
こうなったら、意地でもバットに当ててやる」
沖田が次の１球を放る。ボールは中田の手前で急にカクンと落ちる。フォーク
ボールだ。中田の――落ちる前の軌道に合わせて振られた――バットは空を切り、
ボールはキャッチャーミットに収まった。
「ストライーク、バッターアウト！ ゲームセット！」
この瞬間、三磯学園野球部の対外試合連敗記録は69でストップした。同時に、
野球部の存続も決定した。
内野の全選手と、ベンチに引っ込んでいた公・早秀が飛び出し、マウンド上の
沖田と抱き合う。外野の選手が駆け寄ってくる。
応援していた真奈美と明日香も、思わず抱き合って泣いている。彼女たちから
少し離れたところで、紅蘭も握りこぶしを作って
「よっしゃぁ！」
と小さく叫んでいる。
さながらそれは、地区大会――あるいは甲子園の全国大会――で優勝したとき
もかくやと思わせる喜びの表現だった。
・・・
試合の後、三磯学園側の全員でグラウンドの整備をすることに。
「トンボ」と呼ばれる道具を持ち、地面をならしている公に、沖田が声をかける。
「主人、丹羽。俺たちはおまえらを見くびってた。
おまえたちがいなかったら、いまごろ俺たちどうなっていたか……。
おまえたちはうちの部の大恩人だ。礼を言わせてくれ」
公は微笑むと、後頭部をかきむしりながら沖田にこう言った。
「別にいいって。
俺たちはただ、人がよすぎるだけさ。
今回はたまたまうまく行ったからいいようなものの……」
（……公さん。口ではあんなこと言ってても、私はちゃんと見ていますよ。
言葉だけじゃなく、体全部で表現するあなたのその「やさしさ」。
そして、それを決して誇らず、威張らず、押し付けたりもしない謙虚さ……。
私、今日のあなたを見て、ますますあなたのことが……）
真奈美は、公たちの少し後ろで、白くか細く、そして非力な手にトンボを握り、
他の野球部員と同じようにグラウンドの土をならしながら、公だけを見てそんな
ことを思っていた。