第57話「自転車に乗って…」
日曜日。夜の８時前。
真奈美にとっての「門限」はすぐそこまで迫っている。
公と真奈美は連れだって家――杉原邸への道を歩いていた。これはふたりのいつ
ものデートパターンである。
去年の夏、真奈美がヤクザに誘拐され、むりやり結婚させられそうになったあの事件以後、公はデートの際には、まず自転車で杉原邸まで迎えに行き、帰りは真奈美を門前まで送って帰るようにしているのだ。
「……先輩。今日の映画、喜んでもらえたみたいでホントによかったです。
僕の好み丸出しだったんで、どうかと思ったんですけど……」
「そ、そんな……。
私、公さんの好きなもの、もっともっと知りたかったから……。
あなたのそばにいられれば、私はそれで……十分ですから……」
「先輩……」
この日、ふたりはショッピング街の映画館「テアトル三磯３番館」に行っていた。
ここでは、昨日から「笑いの爆弾シリーズ」と銘打って、「どたばたグランプリ」、
「お台場プレハブ家族２〜プレハブ一家の夏休み〜」、「好き好きマシーン森田君」と、コメディ映画の３本立てをやっていたのだ。
「しかし、久しぶりでしたよ」
「？」
「先輩が、あれだけ大笑いするのを見たの。
ひょっとして先輩、ああいうコメディ映画も好きだったんですか？
先輩といると、いつも新発見があって楽しみなんです」
「そ、そうですか……。恥ずかしい……」
ポッと頬を赤らめる真奈美。
やがて二人は、杉原邸の門前に着いた。
真奈美が脇の小さなくぐり戸を開け、中へ入りこむ。
１分くらいして、真奈美が自転車を押しながら出てきた。朝、公がここまで乗っ
てきていたやつである。
「あっ、ちゃんときれいに磨いてある……」
公がその自転車を見ながらいうと、
「洋子さん、今日もちゃんと……」
と真奈美。
「ひょっとして、これ……いつも洋子さんが？」
公の問いにうなずく真奈美。
実をいうと、公はいつもここへ来る際、――自転車を盗まれないように――門の
内側へ倒しておくことにしているのだ。
そうすると、ふたりがデートから帰ってきたころあいに、洋子が磨いてきれいに
なった自転車が待っているという寸法だ。
「洋子さん……、前にこんなこと言ってたんですよ。
『なんたって、公さんはお嬢さま――いいえ、杉原家にとっても、未来の"旦那さま"となられるお方なんですから、これくらいしておかないと……』」
「そうですか……。
僕ってもうすっかり、杉原家の一員に加えられてるんですね……」
やがて、
「先輩…………、愛してます…………」
公は真奈美のあごに指をかけ、こころもち上を向かせる。真奈美もその意を察し、
そっと目を閉じる。
それをみた公は自転車越しに上体を伸ばし、真奈美の唇にそっと触れる。
10秒ほど唇を重ねあって、ふたりは離れる。
「……来週はちょっと会えないんですけど、電話はちゃんとしますから。
それじゃ、おやすみなさい」
公はそういうと、真奈美の出してきた自転車に飛び乗って路地に消えた。
・・・
真奈美は公を見送りながら、唇にまだ残る彼の感触をなぞっていた。
（公さん……。あなたの触れたこの唇……まだ、あったかい……。
この唇も、この手も……。そして、いつも手を回して、抱いてくれる肩も……。
あなたに触れたところって、いつもあったかい……）
さっき公とキスしたその唇を指でなぞっていると、後ろから
「あら、お嬢様。もうお帰りでしたか」
という声がする。
電撃に打たれたように真奈美が振り返ると、そこには洋子がいた。
「あっ……洋子さん。
もうっ、おどかさないでください」
「お嬢様がぼうっとしておられるところを見ると、どうやら、未来の旦那さま――
公さんのことを考えていた模様ですね？」
「…………」
その指摘が図星だったのか、真奈美は頬を赤らめて小さくうなずく。
「あの……」
「？」
「うちに、自転車はありましたか？」
真奈美のとっぴな質問に、洋子は少し驚いたような表情を見せたが、
「えぇ、私がいつも、買い出しに使っておりますものがありますけど……。
それが何か？」
「私……いつも自転車に乗って帰られる公さんのことを見ていて、いつか、一緒に
自転車に乗ってどこかへ出かけたいなぁって思ってたんです……」
「あぁ、サイクリングですか？
それもよろしいですわねぇ。でも……」
「でも？」
「お嬢様……自転車には乗れましたっけ？」
「え？ あの……その……」
真奈美はどきまぎした表情を見せる。無理もない。
体が弱いせいか、運動には全く無縁だった真奈美。いままで18年間生きてきて、
自転車にさえ乗ったことがないのだ。
「それはちょっと、いただけませんねぇ。
お嬢様がいつか、あの方と一緒になったとき、自転車くらいは乗れませんと何か
と困りますよ？
たとえば日々のお買い物とか、
あと、子供ができましたら、幼稚園への送り迎えとか……」
「そ、そうですよね……」
真奈美は飲み込みが早い。たちまちに自転車に乗れないことのデメリットを理解した。
洋子はポンと手を打つと、
「そうだ。これも花嫁修業の一環として……。早速明日から、自転車の練習、して
みませんか？」
「え、ええ。是非お願いします」
「そうしますと……。
お嬢様。明日、大学の方は？」
洋子の問いに、真奈美はあごに人差し指をやりながら何かを思い出していたが、
「明日は、確か午前中で講義が終わりますから……」
「では、家に戻られて落ち着きましたら、私を呼んでいただけませんか？」
「はいっ！」
・・・
次の日の午後。
中庭に出た真奈美は、高校時代に使っていた体育のジャージ――とはいえ、体が
弱いせいで授業は見学が多く、高校３年間を通じて、実際に着た回数は数えるほど
しかなかったが――を着て、洋子の自転車にまたがっていた。その後ろでは、洋子
が荷台に手をかけている。
「お嬢様、準備はよろしいでしょうか？」
「え、ええ。はじめてください」
「それじゃ、私が後ろで支えていますから、ゆっくりペダルを踏んでください」
洋子の声に、真奈美はゆっくりペダルを踏む。その力はチェーンを伝って後輪に
達し、自転車は少し前に進む。その引っ張る力にあわせ、洋子は荷台を握ったまま
ゆっくりと歩き出す。
「次、反対側」
また少し前に進む。
「そうそう、いい感じですよ。お嬢様」
こうやって真奈美と洋子は、中庭を小回りに２周する。
そして３周目に入ろうとしたとき、洋子は声をかける。
「お嬢様、いまから手を離します。今の感じでもう１周回ってきてください」
「え？」
「行きますよ……３……２……１……」
洋子はパッと荷台から手を離し、自転車は真奈美のペダルを踏む力によって前に
進む。しかし……。
「あっ、あぁ〜〜〜〜〜」
真奈美の乗った自転車は、しばらく泥酔者のようにふらふら進んでいたかと思う
と、10ｍもいかないうちに転倒した。真奈美の叫び声を残して。
「いたたたた……」
お尻から地面に落ち、腰をさすりながら立とうとする真奈美。
「お、お嬢様！ お怪我は？」
さすがに洋子も心配になって駆けてくる。しかし真奈美は立ちあがると、洋子に
向かって微笑んでみせる。
「……その様子ですと、どうやら大丈夫のようですね。
さぁ、気を取りなおして最初からはじめましょ？」
こうしてはじまった、洋子と真奈美の二人だけの「特訓」。
何度も何度も転ぶ真奈美。そのたびに、彼女の細い脚に貼られる絆創膏の枚数が
増えていったが、真奈美はあきらめずに続けていた。
その５日目……。
この日、４度目の転倒をした真奈美を助け起こそうとした洋子だったが、上体を
かがめた瞬間、電気に打たれたように顔をしかめてその場に倒れた。
「洋子さん、洋子さん！」
真奈美が覆い被さるように洋子に取りすがる。
「も……申し訳、ありません……お嬢様……。
どうやら……こ、腰が……。
前から、ちょっと、調子が……よくなかったのですが……」
「洋子さん、私にそんなこと、一言も……。
言ってくれたら、私だって無茶はさせなかったのに……」
そういった真奈美に、洋子は無理に微笑むと、
「わ、私は……いいんです……。
私は……お嬢様の……喜ぶお顔が見られれば、それで充分なんです……。
お嬢様がまだおむつをしていた頃から18年……、ずっとずっと、そうやって生きて
来たんです。
私の全ては、お嬢様とともにあるのですから……。
お嬢様がお嫁に行かれるその日まで……。いいえ、お嬢様が愛するひとと一緒に
なって、自分の子供を抱くようになっても……ずっと……」
「洋子さん……」
洋子のけなげさに涙ぐむ真奈美だった。
・・・
医者の診断では、洋子の症状はただの「ぎっくり腰」。
ただ念のため、２・３日は安静にせよとの指示。これでは、真奈美の練習相手などできるわけもない。
その晩。
真奈美は机の脇にある電話機を取ると、ある番号をプッシュした。
trrrr.... trrr....
「はい、毎度ありがとうございます。お好み焼きの『おたふく』です」
「もしもし、森井さんのお宅でしょうか？
夜分恐れ入ります。私、杉原と申しますが、夏穂さんはご在宅でしょうか？」
「……あぁ、夏穂ですか。少々お待ちください……。
夏穂や、杉原さんからお電話……」
10秒前後の間があって、真奈美の望んだ相手――夏穂が電話口に出る。
「もしもし、森井ですけど」
「あの……」
夏穂にはそれだけで、相手が誰なのかが分かった。
「あっ、杉原先輩？
いったいどうしたんですか？」
「実は……」
真奈美はいままでのこと――公とサイクリングに行きたくて、洋子と一緒に自転
車の練習をしていたが、その洋子が怪我をしてしまったこと――を聞かせる。
「それで、あたしに何を？」
「……その……自転車の……練習に……つきあってほしいんです……」
「先輩。そういうことだったら、別にあたしじゃなくても、公くんがいるじゃあり
ません？
どうして公くんに頼まないんですか？」
夏穂は、――真奈美のことをよく知っている者なら――当然の質問をぶつける。
「ひょっとして、公くんとケンカをしたとか？」
「そういうことじゃないんです。ただ……」
「ただ？」
「私……――前に公さんにも話したんですけど――高校卒業を契機に、いままでの、
弱くて泣き虫な自分を変えていきたいって思っているんです……。
私は大学生、あのひとは高校生……。もう、いままでみたいにべったり頼れない
から……。
まして……あのひとが、自衛隊に行ってしまったりでもしたら……もう……」
「その話――自衛隊云々の件は、公くん自身から聞きました……」
夏穂は返事をしながら、真奈美の気持ちを汲み取っていた。
（先輩……もうそこまで……ずっと先のことまで考えてるんだ……）
しばしの間があって、夏穂は返答する。
「分かりました。
他ならぬ杉原先輩の頼みですもの。あたしで良かったら、喜んで」
「ほ、本当ですか？ よかった……」
・・・
次の日。
杉原邸の中庭では昨日と同じ光景が展開されていた。
ただ、真奈美の乗る自転車の後押しをしているのが、洋子ではなく夏穂になって
いただけであるが。
「もっとペダルに力を入れて！ ハンドルはまっすぐ持って！
……そうそう、その調子です。先輩」
「森井さん！」
「はい!?」
「森井さん、ちゃんと後ろで支えていてくださいね」
「え？ あたし、もう支えてませんけど……」
実際そうだった。
架空の視点から見ると、夏穂は真奈美の自転車から手を離し、自分でついて走っ
ているだけだった。
「森井さん！ 私、私、自転車乗れるようになったんですね？」
真奈美は自転車を止めると、飛び降りて夏穂に駆けよってきた。
「やればできるじゃないですか、先輩！」
夏穂もうれしそうに両手を広げ、駆け寄ってくる真奈美を抱きとめた。
早速その晩、真奈美は公に電話して
「来週の日曜、サイクリングに行きませんか？」
と提案した。
「サイクリングですかぁ……。そういうのも、たまにはいいですね」
公は続けて、
「ところで……、先輩、自転車には乗れるんでしたっけ？」
と質問してくる。
「えっと……、いままで、乗れなかったんですけど……、この何日か練習して……、
今日、やっと乗れるようになったんですよ」
「えっ？ 本当？」
驚きの声を漏らす公。
「はい……。あなたのために……、一生懸命練習したんですよ」
「あなた――公のために練習をした」という真奈美の言葉を聞いて、幸せな気持ちに
なる公だった。
・・・
しかし、その当日……。
ザァァァァァァァァァ……。
真奈美は窓の外で響く音に目を覚ました。
窓を開けて見ると、外は車軸を流すような大雨。
（そんな……。
せっかく、あれだけ頑張って練習して、自転車に乗れるようになったのに……）
心でそうつぶやくと、真奈美はベッドの上にへたりこんだ。
しばらくそうしていると、机の上の電話が鳴る。あわてて受話器を取る真奈美。
電話の相手は公だった。
「先輩、残念ですね……。この雨じゃぁ……」
公も本当に残念そうな声だった。
「そ、そうですね……」
聞こえるか聞こえないかという感じの声で返事をする真奈美。
しばらく回線に沈黙が流れて、公が切り出した。
「サイクリングはダメになっちゃったけど、先輩には会いたいから……。
そうだ！ 市民科学センターのプラネタリウムに行きません？」
「……は、はい。喜んで……」
「それじゃぁ、いつもの時間に家へ……」
「あの……、雨足強そうですから、濡れないように気をつけてくださいね」
――電話の向こうの公には見えないと分かっていながら――精一杯の笑顔で話す
真奈美であった。