第58話「ウキウキ！ペアマラソン(中編)」
脚の遅い真奈美にあわせているうちに、いつのまにか後方集団を走っていた公。
その右手は、真奈美の手をしっかりと握っている。
「ハァ……ハァ……、フゥ……」
一本道の登り坂ということもあってか、ぜぇぜぇと息を切らしながら走っている真奈美。
公の感覚としてはゆっくり走っているつもりだったが、それでもいつのまにかペースが上がっている。
（やべ、先輩にはこれでも速いんだ。もう少しペースを落とそう）
公は、走るペースをほとんど歩いているような速度に落とす。
（あっ……、公さん、私に合わせてくれている）
その言葉が頭によぎった瞬間、真奈美はそれまでの息苦しさが嘘のように消えていくのを感じた。
（なんだか、公さんに守られているみたい……。
私……、いままで、走るのがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった……）
「先輩……、苦しくないですか？」
公が心配そうに尋ねてくる。
「う……ううん。平気です。
公さんが、そばについていてくれるから……」
さっきまでの苦しそうな表情が嘘のような真奈美だった。
公の選択は正解だった。
序盤に調子に乗って飛ばしていた連中が、坂道で息切れしたのか徐々に下がってきて、公と真奈美は自動的に中団の位置に来ていた。
「第１チェックポイント」と書いてある立て札が見えた。
「先輩、もうすぐチェックポイントですよ。もう一息、頑張って！」
「はいっ！」
声を掛け合いながらその方向へ向かう二人の手前に、大きな池が見えた。
「はーい、ストップ！」
スタッフが二人に声をかける。
「え〜、第１チェックポイントは、この池の向こう岸になりますが、ここから先は男性の方にこちらのゴム長を履いていただいて、女性の方をおぶって渡っていただきます。
で、男性の方の靴は、女性の方が持ってください」
スタッフの指示により、参加者たちはそれぞれに準備をはじめる。
「明日香、おまえ、また太ったんじゃねぇか！？」
明日香を背負った早秀が文句をたれている。
「うるさいわねぇ。これでもダイエットしてたんよ」
「実際におまえを背負ってみて分かったが、そのダイエットとやらの効果のほうは疑わしいな……」
「ぶぅ〜」
重そうな声（どこまでが本気か分からないが）を出す早秀の背中の上でふくれる明日香。
「し、茂男さま……。大丈夫ですか？」
一方で、こちらは芝田に背負われている若菜。心配そうな顔で、下にいる芝田を見ている。
「心配無用っス、綾崎先生。俺は力だけはあるんで」
芝田の説明に、納得したのかどうか疑わしい顔をする若菜だった。
「……さっ、先輩。乗って」
ゴム長に履き替えた公が、しゃがんで真奈美を迎える。
（こうしてみると、公さんの背中って大きい……。
なんだか、安心できそう……）
公の背中を見ながらつぶやく真奈美に、
「さぁ、急いで！」
とせかす公。
「ご、ごめんなさい……」
そういうと、真奈美は公の肩に腕を預ける。真奈美が背中にもたれかかったのを確認して、公は腕を後ろに回して真奈美の太ももを抱え上げる。
公の腕の筋力と背筋力は、推定３０ｋｇ台の真奈美の体を楽々と担ぎ上げた。
ジャボ、ジャボ、ジャボ……。
膝まで水に漬かりながら、真奈美を背負って歩く公。
その背中にしっかり身を委ねながら、真奈美は
（公さんの背中って、大きくてとってもあったかい……。
それに……、こうしていると、公さんの胸の鼓動が伝わってくるようで……）
内心でそうつぶやいていた。
真奈美は、いつまでもこの背中に身を委ねていたいという気持ちになっていた。
ふたりは第１チェックポイントを通過、第２チェックポイントへ歩を進める。
「第２チェックポイントですが、まずこちらであみだくじを引いてもらいます」
スタッフの説明を聞き、公は、
「あみだくじですって。先輩、どれにします？」
「えーと……」
真奈美はあごに指をやってしばし考えていたが、真ん中のラインを指さして、
「これにします」
とスタッフに告げる。スタッフはマジックでそのラインをなぞって、模造紙の下の方にある１本のラインにたどり着かせる。
「えーと、３番です。３番のボックスから、１枚とってください」
別のスタッフが「３」と書かれた箱を持ってきて現れた。
「じゃ、ここは僕が引きますね、先輩」
公はそういうと、箱の中に手を突っ込んで１枚の紙片を取り出し、スタッフに渡す。
その紙を広げたスタッフは、ふたりに
「えー、次のチェックポイントまで、男性の方に目隠しをして走ってもらいます」
と告げ、アイマスクとベルを渡す。
「女性の方は、こちらのベルを持って男性の方を誘導してあげてください」
真奈美はベルを持って先行し、アイマスクをした公がその後について走る。
チリン、チリン、チリン……。
目隠しで視界を塞いだ公にとっては、真奈美の鳴らすベルの音だけが頼りなのだ。耳に全神経が集中する。
（えーと……確か先輩は、……こっち、……いや、あっちだったかなぁ……）
いくらベルの誘導があるとはいえ、とてもまっすぐに走れたものではない。
そうやって走っているうちに、真奈美は石にけつまずいたのか
「キャッ！」
と短く叫んで転ぶ。
後ろを振り返った瞬間に転んだので、しりもちをつく形になった真奈美。
そこへ、行き脚のついた公が突っ込んできた。目隠しをしているので、当然に石にけつまずき、
「うわぁぁぁ〜」
と叫んで前につんのめる。
無意識に出た両腕が地面についた瞬間、公は片方の手に、地面とは明らかに違うやわらかい感触を覚えた。
ムニュ。
「？」
公は空中に疑問符を浮かべたが、それがいったいなんなのかすぐには解らない。更に手を動かしてみる。
「………あっ……」
妙な声が聞こえてくる。
（どこかで聞いたような声…）
公はその「声」の正体にすぐ気がついた――夜中に時々、兄の部屋から失敬して見ていたりする「成人向」ビデオでよく聞く声。
ということは……。
慌てて目隠しを取ると、そこには顔面のみならず、耳たぶからうなじまで真っ赤になりながらうつむく真奈美がいた。
その視線を目で追ってみると、そこには、真奈美のふくらみにみごとに乗っかった手があった。
「…………………………」
「……………………………………」
ふたりの周囲１ｍの空間が凍結した。
その沈黙は、ふたりの後ろから聞こえてきた
「あっ、せ、先輩方……」
という声に打ち消された。
振り返ると、そこには――第２チェックポイントで「次のチェックポイントまでウサギ飛び」と指示され、ようやく追いついてきた――榎本とえみるがいた。二人とも、眼前の公と真奈美の姿に赤面している。
「……ど、どぞ。
ぼ、僕らのことは、き、気にせずに……。つ、つづけて……」
パニック状態の榎本とえみる。完全に何か別のことと勘違いしているらしい。
しかもそればかりか、周囲にいた他の選手も足を止めて遠巻きに二人を見ているではないか。
「わぁっ！」
「きゃっ！」
公は横っ飛びに転がって真奈美から離れ、真奈美はその場で胸を押さえる。
「あの……。し、失礼します」
超特大級の汗を垂らしながら、えみるの手を引っ張って早足でその場を立ち去る榎本。
その時、公は
（……先輩って、とってもやわらかい……。
ずいぶん前にもこんなことあったけど、あのときよりも……）
急速に刻む心臓のビートを感じながら、脳の独立した部分でそんなことを考えていた。
第３チェックポイント。
ここから先は、頂上の第４チェックポイントまで二人三脚で登ることになる。
公は自分の左脚と真奈美の右脚を、スタッフから渡されたロープで結ぶ。
「いいですか、先輩。
僕が『１』で右脚出しますから、先輩は左を出してください。
で、『２』は右ですよ」
「はい」
公に肩を抱かれながら、真奈美はうなずく。
「それじゃ、行きましょう。
先輩も一緒に、声出してくださいね。
１・２、１・２、１・２……」
声をかけあいながら走り出すふたり。
しかし、30ｍもいかないうちに
「きゃぁっ！」
という叫びを残して真奈美が転ぶ。
「だ、大丈夫ですか？ 先輩？」
慌ててその場にかがむ公。真奈美は体を起こすと
「ううん……平気です……」
と気丈に応える。
「それじゃ、気を取り直してもう一度……。
１・２、１・２、１・２……」
再び走り出すが、いくらも進まないうちにまたも真奈美が転んでしまう。
何回目かの転倒の後、公が身を屈めてくると、真奈美は涙混じりの声になって
「ご、ごめんなさい……。公さん……。
わ、私が、うまくないばかりに……、あなたに……ご迷惑……、おかけして……」
と訴える。
「先輩……」
「公さん……。もう……棄権……しませんか？
こ、これ以上、迷惑……、かけられないから……」
涙ながらにそういった真奈美。
公は彼女の背中に手を回すと、こちらへ強引に抱き寄せる。
「!?」
「ヤケにならないで。
大丈夫……僕に任せてくれれば……」
公は真奈美の耳もとに口を寄せ、真奈美に聞こえるか聞こえないかという程度の声でささやきかける。
「公さん……」
公は真奈美の手を取ると、それを自分の左胸――心臓のある部分にあてがう。
「大丈夫です……僕に、すべて任せて……」
今度は彼女の正面を向き、心臓の鼓動と同調するようなテンポでささやく。
真奈美は、自分を見つめる公の視線と声、そして、心臓の鼓動を感じとって、
（公さん……。
こうやって、あなたに見つめられて、ささやきかけられると……。私……、なんだか……安心できる……。
『何も考えずに、すべてをあなたに任せればいい』
そんな気持ちに、させてくれる……）
心のなかでそうつぶやいていた。
公は続けて
「先輩。目を閉じて……」
とささやくと、両手を顔の両側にあてがう。
真奈美はその意を察し、軽く目を閉じる。
３秒後、真奈美は額に公の唇の感触を覚えた。
その感触に、真奈美は目をあけると
「公さん……。わ、私……」
とつぶやく。
公は「もういいんだ」とでも言いたそうな表情でうなずいた。
「さぁ、頂上までもう少しです。頑張りましょう」
「はいっ！」
どうにかこうにか頂上に到着。
真奈美は首から下げていたスタンプカードをスタッフに示す。スタッフはカードに「カ」と彫られたスタンプを押す。
ちなみにスタンプは各チェックポイントごとにあり、第１チェックポイントでは「べ」、第２チェックポイントでは「ス」、そして、先ほど通過した第３ポイントでは「ト」というスタンプを押してもらっている。
そして、完走してスタンプが全部揃うと「ベストカップル」という言葉が構成されることになる。
スタンプを押してもらったのを確認すると、公は足に結んであっだ紐をほどいて真奈美を自由にする。
紐をほどかれると、真奈美はスタッフのいるテントに駆け寄り、スタート地点でもらった預り証と引き換えに弁当を受け取った。
「先輩、なんか、いつもより大きな弁当箱ですね。
何が入ってるんですか？」
公が尋ねると、真奈美は微笑を浮かべて、
「うふふっ……、それは、開けるまでのお楽しみです。
さぁ、あちらの木陰にでも行きませんか？」
と誘いかけた。
「え〜、復路のスタートは午後１時１５分からです。
１時になりましたら、もう一度こちらへ集まってください」
スタッフの呼びかけを背にしながら、公と真奈美は連れだって木立の方へと歩いていった。