第60話「ウキウキ！ ペアマラソン（後編）」
「このへんにしませんか、先輩？」
公は一本の大きな木を指さした。
見れば、その木は非常に枝っぷりがよく、良い加減で日除けにもなっている。
ふたりは――主催者があらかじめビニールシートを敷いてくれている――木の根元に腰を下ろす。
真奈美が弁当箱の包装を解くと、キツネ色に焼けた三角形の物体が姿を見せた。香ばしい匂いが漂う。
「あっ、焼きおにぎりですか。おいしそう……」
感嘆の声を上げる公に真奈美は
「ゆうべ、洋子さんに教えてもらったんです。
薄口のお醤油で、あっさり味にしてみたんですけど……」
公は二つあるうち、大きい方の弁当箱に手を伸ばし、おにぎりを一つつかんで言った。
「しかし、おにぎりとは随分いいところに目をつけましたね、先輩。
ご飯や麺類――炭水化物は、お腹にたまってすぐにエネルギーになるんですって」
「そ、そうなんですか？」
「僕も話で聞いただけなんですけれど…。
トライアスロンとかでは、レースの前日に『カーボパーティー』とかいう食事会があって、そこではご飯系のものとかパスタとか、炭水化物系の食事が出るんですって。
たぶん、森井さんみたいに陸上競技をやってる人なら、そのあたりのこと、よく知ってると思いますけど……」
言葉を続けて、
「しっかし、このおにぎり、妙にデカくないですか？
下手したら、先輩の顔よりも大きいですよ」
その言葉は嘘ではなかった。
真奈美の持ってきた「焼きおにぎり」は、実に常識を越えた大きさだったのである。よくこれだけの分量のご飯を、おにぎりの形に仕上げたものだ。
「そ、そうですか!?
私、公さんの喜ぶ顔が見たいから、一生懸命握っていたんですよ。
そうしたら、いつのまにかこんな大きさに……」
鞭のように華奢な体の真奈美には、この巨大おにぎりはやはり辛いようだ。半分も食べないうちにギブアップしてしまった。
それを見た公、
「先輩、もういいんですか？
だったら僕が……」
「えっ、で、でも……。
この後、麓まで走らないといけませんし……」
食べ過ぎのせいで辛くなることを心配する真奈美。だが公は、
「僕は、別にいいんですよ。
それに、残したら、せっかく作ってくれた洋子さんや先輩に失礼ですし、何よりも単純にもったいないですから……」
そういうや否や、公は真奈美の食べ残しにかぶりついている。
「まぁっ……」
口もとに手をやりながら、微笑んで彼を見守る真奈美。
一心不乱におにぎりにかぶりていている公を見ていた真奈美だったが、何かを見つけたのか、ピクッと顔を動かす。
「？ どうしました、先輩？」
真奈美の微妙な表情の変化に気づいた公が空中に疑問符を浮かせると、真奈美は
「公さん……、あれ……」
「？」
「あなたの……足元……」
真奈美の視線を公が追うと、その先の地面に何かが生えているのが見えた。
その物体の正体に気付いた公、
「あっ、四つ葉のクローバーだ。
それも、二本も生えてる……」
驚きの色を隠さずにそういった。
公はおにぎりを弁当箱に戻すと、茎を傷つけないように注意を払いながらそれを引き抜いた。そして一本を真奈美の前に出して
「先輩、これ……」
「い、いいんですか!?」
そう尋ねてきた真奈美。だが、公は微笑むと
「だって、最初に見つけたのは先輩だし……、
それに……僕とお揃いだから……」
そういって、クローバーを真奈美の髪に挿してやる。
「うれしい……。
お家に帰ったら、押し花にでもしますね」
真奈美は髪からクローバーを抜くと、自分の目の前に持っていってそういった。
・・・
１時。
参加者たちに集合がかけられた。
「え〜、これから下りコースの後半戦に入ります。
いまから15分後にスタートしていただきますが、前半の入線順に15秒ずつタイム差をつけます。
これからゼッケン番号とお名前を読み上げますので、呼ばれた方は前に出てください」
スタッフは次々と名前を読み上げる。
「21番。主人・杉原組」
呼ばれたふたりは前に出る。
「え〜、おふたりは12番目の入線でしたので、３分遅れのスタートとなります」
公はうなずくと、隣にいる真奈美に、
「３分遅れはちょっときついですけど、この先は下り坂ですからね。
まだ挽回のチャンスはありますよ」
状況をそのように説明する。
きっかり３分後。
「21番、主人・杉原組、スタートしてください」
スタッフの声に、公は振りかえって真奈美にうなずく。
言葉は発せられなかったが、真奈美にはそれで充分だった。
第５チェックポイントは、谷にかけられた丸木橋を渡らなければならない。
下には安全のためにネットが張ってあるが、橋そのものは人間一人がやっと通れる程度の細さとあって、その心理的圧迫感は絶大だ。
公たちがそこへたどり着くと、もう数組のカップルが渡り始めていた。
そのうち何組かは、何かに当たったのかよろめいてネットへ転落している。
公がその光景に訝っていると、真奈美が谷の方を指さして、
「公さん。あれ……」
と公に告げる。
見ると、谷底になにやら機械が置いてあり、そこからなにかが撃ち出されている。
更によく見ると、撃ち出されているものは空気を抜いたバレーボールらしい。
二人が見ているうちに、また一組がバレーボールの「砲撃」を浴びてネットへ転落した。真奈美は公のシャツを指先でつかむと
「公さん。私……、なんだか怖い……」
こころもち震えるような声でそう訴えた。
公は真奈美の――自分のシャツをつまんでいる――指をその上から更につまむと、真奈美の耳元に口を寄せ、ささやく。
「大丈夫。僕が、ついてるからね……」
橋のたもとでスタッフからローラースケート用のヘルメットを渡され、ふたりは丸木橋にトライする。
「横を向いてはダメです、先輩！
僕の背中だけを、見ていて」
広げた両手でバランスを取りながら、公は真奈美に注意を与える。
その注意にうなずきながら、公と同じポーズで必死についていく真奈美。
そこへバレーボールの「砲撃」が浴びせられるが、まだ照準の精度が甘いのか、ボールは公たちの手前で落ちる。
しかし、撃つ方も間抜けではない。数発の発射で修正したのか、だんだん狙いが正確になっていく。
まず、比較的体の大きい公が先に狙われる。
バレーボールの「弾丸」が当たって
「うっ！」
とうめく公。体がよろめく。
「大丈夫ですか!? 公さん」
真奈美が叫ぶが、公は気丈にも
「ぼ……僕は……、平気です」
と逆に励ます。
そこへさらに何発かのボールが当たる。それでも耐える公。
「公さん！」
「せ……先輩。もう……すぐです……」
そうしているうちに、今度は真奈美にもボールが当たる。
「キャッ！」
「先輩、しっかり！」
今度は励ます方と励まされる方が逆になる。
結局、二人は一度も谷に落ちることなくこの丸木橋障害をクリアした。
「ツ」のスタンプを押してもらい、二人は第６チェックポイントへ向かった。
第６チェックポイント。
ここを抜けると、あとはゴールまで一直線である。
第５チェックポイントをノーミスでクリアしたのが効いて、二人は先頭を切ってそこへ到着した。
真奈美がスタンプカードを差し出し、そこに「プ」のスタンプを押してもらうと、
「はい。ではここで、男女別々に分かれてください」
とスタッフが言い出す。
「えっ!?」
二人が訝っていると、もう一人スタッフが出てきて真奈美を仮設の小屋へ連れていく。
「おい、先輩をどうするんだよ？」
公がそのスタッフの背中に声を投げると、最初にいたスタッフが、
「はいはい、男性の方はこちらです」
と、別の小屋へ公を引っ張っていく。
公がしぶしぶそこへ入ると、中にはタキシードが吊るしてあった。
「ここから先は、その小屋の中の衣装に着替えていただきます」
外からスタッフが声をかけてきた。
とりあえず、適当に合いそうなサイズのやつを選んで着替える公。
「着ていた服はどうすればいいんですか？」
公は壁越しに質問する。
「え〜、服の方は、私どもでお預かりします。
ゴール後にお返ししますので、ご安心ください」
手早く着替えて小屋を出た公。
だが、真奈美はなかなか出てこない。
そのうちに、後続のカップルがどんどんチェックポイントへ駆けこんでくる。
（先輩……何やってんだろ……？）
腕を組みながら訝っていると、小屋のドアが開いて真奈美が出てきた。
出てきた真奈美は、純白のウェディングドレスをその身にまとい、腕には肘までありそうな長くて白い手袋をしていた。さすがにベールまではなかったが。
「せ、先輩…………」
意外なところで見ることになった真奈美の「花嫁姿」に、公は思わず、感嘆の溜息を漏らす。
「ど、どうしましたか、公さん？
わ……私の……かっこう……。へ、変ですか？」
「そんなこと……。
先輩、何を着ても似合うから……」
首を振りながらこたえる公。
そのふたりに割り込むようにスタッフが声をかける。
「え〜、ここから先は『花嫁・花婿レース』となりますので、いまのかっこうでゴールまで行ってください」
それを聞くと、公は真奈美を「お姫さま抱っこ」の要領で抱えあげる。
「!?」
突然のことに、目を白黒させる真奈美。
「どうしたんですか、公さん!?」
「先輩、そのかっこうじゃ走りにくいでしょ？
だったら、こうやって……。
それに『花嫁・花婿レース』って言ってるしね」
そう言うと、公は真奈美を抱えたまま走り出す。
下り坂。
公に「お姫さま抱っこ」されている真奈美は、彼が走ることによって起こる適度な振動に身を委ねている。
（こうしていると、公さんの胸の鼓動が……そして、息遣いが……ずっと身近に感じられる。
さっき、転んで胸を触られたときよりも……もっと激しく……）
ハァ、フゥ、ハァ、フゥ……。
耳もとでは公の呼吸する音と、それに混じって心臓の鼓動が聞こえる。
（私……、
こうやって公さんに抱かれているときが……一番……幸せ……）
真奈美は心地好い振動に身を委ねつつ、そんなことを想っていた。
「……待てよ、公。
俺達だって負けないぜ」
早秀が追いかけてきた。やはり公と同じように、明日香を腕に抱えている。
「先輩、待ってください！」
榎本も駆けてくる。彼はえみるの手を引いている。
「ぬぅお〜、俺もいるぞぉ〜！」
芝田も追いかけてきた。やはり若菜の手を引いている。
「おわっ、シ、シゲさんまで!?」
公は追っかけてくる顔なじみの面々に驚きながらも
「なんの！
先輩、加速しますから、しっかりつかまってください！」
「はいっ！」
真奈美の返事を聞くや否や、公はさらに加速する。
負けじと後を追う３組。
そして団子状態のまま、４組は参道を抜け、ゴール地点である駐車場へ駆け込んできた。
「さぁ、主人・杉原組、丹羽・星野組、榎本・永倉組、芝田・綾崎組の順で最後のスパート。
しかし、４組ともまったくの団子状態だぞ。
この中からいったい、誰が抜けてくるのか？」
アナウンサーが絶叫する。
そして……。
「ゴール！ しかし、４組ともまったくの団子状態だ！
勝敗は写真判定に持ち越されます」
ハァ、フゥ、ハァ、フゥ……。
真奈美を抱えて全力疾走していた公。真奈美を下ろすとその場に倒れ込み、荒い呼吸を繰り返していた。
「だ、大丈夫ですか？ 公さん」
真奈美が上からのぞきこんできた。
酸素を取り込むのに忙しくて言葉も出せず、微笑んでみせるだけの公。
「こ、公……」
隣で同じように倒れていた早秀が声をかけてきた。
「ど、どっちが……勝っても……お互い……」
「あぁ、うらみっこナシだな」
公の返事に、笑ってみせる早秀。
やがて……。
「写真判定の結果が出ました。１着は……」
息を呑む一同。
「……ゼッケン21番。主人・杉原組！」
その声を聞いた真奈美は、地面にのびている公を抱え起こすと、彼に抱きついてきた。
「公さん！ わ、私たちの、勝ちですよ！」
「……よっしゃあ！」
公も真奈美を抱き返す。
・・・
表彰式。
公と真奈美は表彰台に上がり、大会委員長の「メモスポ」編集長から賞状とトロフィー、そして、それぞれに奨学金５万円の目録を受け取る。
本来、優勝したカップルには賞金10万円が払われることになっていたが、今回優勝の公と真奈美は、ふたりともまだ学生ということで半額に減らされ、「奨学金」という体裁に変わっていた（余談だが、もし優勝カップルが中学生以下だった場合は、２万円分の図書券を出す予定だったらしい）。
プレゼント伝達の後、カメラマンが前に進み出て
「すみません、写真を撮らせていただきますので」
と言ってきた。ふたりはうなずくと、彼の前に向き直る。
「ふたりとも、笑って……ハイ！」
フラッシュが光り、タキシードを着た公とウェディングドレスをまとった真奈美の姿が、印画紙に焼きつけられる。
後日、２人のもとに、このときの写真が表紙に使われた「メモリアルスポット」が贈呈された。
そして、この本は２人の「思い出の品」として、長く手元に残されることになった。