第１話「初期：1995年・三磯市立第四中学校」
2001年３月某日、午前５時。
ここは沖縄のとあるホテルの一室。
丹羽早秀は、いつもより早く目が覚めてしまった。
高校時代よりこっち、寝坊＆遅刻の常連だった彼にしてみれば、今日の目覚めは
ギネス級の早さだ。やっぱり、旅先だからだろうか？
窓のカーテンを通して、月の明かりが差し込んでくる。その光で視界を回復した
早秀の目に、彼と同じベッドにいる、ショートカットの小柄な女の子の姿が映る。
その子の名前は星野明日香。早秀の恋人だ。
……つい先日、早秀と明日香は高校を卒業した。
成績の方は、早秀も明日香も後ろから数えた方が早いくらいだったが、どうにか
こうにか卒業証書だけはもらえた。
で、明日香の提案で「卒業したら、二人でどっか旅行に行こうよ」ということに
なった。もちろん、彼に反対する理由はない。
つい先日、三流大学の入試に落ちてしまった早秀は４月から予備校へ通わなけれ
ばならない。そうなると、一足先に"大学生"になった明日香とは会う機会が減って
しまうからだ(ちなみに明日香が通うことになっているのは、横浜の"清華女子大学・
経済学科"である)。
早秀が驚かされたのは、明日香の行動の早さである。
卒業式が終わったら、その足で早秀を引っ張って制服姿で旅行代理店へ直行して
いるのだ。早秀が事態の流れの速さに戸惑っているうちに、明日香はもう行き先を
決めて、店員と話をつけていた。
もしも将来、この二人が結婚したら、早秀は確実に明日香の尻に敷かれそうな気
がする……。
早秀の"未来の妻"になるかもしれない明日香はいま、胸の中で眠っている。
両手を彼の背中に回し、しがみつくようなかっこうで。
早秀がふと見ると、シーツがずり下がって白い肩が見えている。
「風邪、ひくぞ……」
そうつぶやいてシーツを上げてやろうとする。そのとき、月の光がシーツの中に
射し込む。光に照らされた明日香は、産まれたままの姿をしている。
と、そのとき、眠っているはずの明日香がつぶやいた。
「早……秀……、大……好き……」
その声に、ふと明日香を見る。
明日香の寝顔は、自分の居場所を見つけたような穏やかな表情をしている。
それを見て、早秀はゆうべのことを思い出した。
……ゆうべ、早秀は初めて、明日香を抱いた。
お互い、初めてだった。
事が終わった後、明日香は早秀の胸の中でこういった。
「早秀……、あたしね……、
あなたと中学で初めて出会ってから６年間、ずっとずっと、こうやってあなたに
愛されることを夢見てたの。
その夢が、いまかなった……。
もう、このまま死んでもいいくらい、幸せ……」
そう言われた早秀本人も、まだ半信半疑だった。
６年前は、明日香に憎まれ口ばっかり叩いていた早秀が、その本人を抱いて"女"
にしてしまったのだから。
寝つけなくなった彼はしばし目を閉じ、明日香との出会いに想いを巡らせた……。
・・・
話は６年前、1995年４月のある日にさかのぼる。
あの頃の早秀は、三磯市立第四中学校の新入生だった。
入学式の日のことだった。
前の晩に１時までゲームをやっていた早秀は、朝、いきなり母親にたたき起こさ
れた。
「早秀！ 入学式から寝坊してどうするつもりなの？
まったく、武秀を見習ったらどうなの……」
母親はそういうと、早秀の掛け布団を強引にまくりあげた。こうなると起きざる
をえない。
ちなみに"武秀"とは早秀の３つ下の弟のことである。
朝飯のパンをむりやり口に押し込み、新しい制服を着て学校へ走っていく。
丹羽家から中学校までは１キロもない。早秀は一生懸命走っていた。さっきの母親の言葉ではないが、入学式早々に遅刻してはたまらないからだ。
学校へ向かう最後の路地で、早秀はいきなり何かにぶつかって弾き飛ばされた。
対戦格闘ゲームで強烈な一撃を食らって倒されたマイキャラよろしく、視界に星が飛ぶ。
「あっ、ごめ〜ん」
女の子の声がする。
見ると、早秀の前にはショートの女の子が立っていて、こっちを見下ろすように
している。制服の新しさからすると、この子も新入生のようだ。
「あ〜っ、間に合わないよぅ」
そういうと、倒れている早秀に構わずその子は走っていった。
「気をつけろ、バカ！」
早秀はその子の背中に悪態を吐いた。
……早秀は何とか入学式に間に合った。
入学式が終わると、生徒たちはそれぞれの教室へ移動し、自己紹介と当面の日程
についてのガイダンスを兼ねたHRへ移行する。
席に着いた早秀は、前夜の睡眠不足に加えてここまでの走りが響いて、ちょっと
消耗していた。
早秀が所在なげに座っていると、誰かが彼の机を叩く。その音に顔を上げ、周囲
を見回してみると、隣の席に髪を短く切り揃えた、ボーイッシュな感じの女の子が
いた。
「ねぇねぇ、きみ、入学式早々なに変な顔してるの？」
（なんだよ、いきなりなれなれしい……）
そう思った早秀は、ぶっきらぼうに
「あぁ、別に……」
とだけ返事した。
その子は彼の返事を聞いていたのかいないのか、
「あたし、虹ヶ丘小学校から来た星野明日香っていうの。
これからよろしくねっ。
ところで、きみはなんて言うの？」
と逆に聞き返してくる。
こうなると返事をしないわけにはいかない。
「俺は、丹羽早秀」
「へぇ〜っ、"早秀"っていうんだぁ。おもしろい名前」
そう言うと、その子――明日香はげらげら笑い出した。
（おいおい、そんなに笑うこたぁねぇだろ）
早秀は苦笑するしかなかった。
やがて、明日香の自己紹介の番になる。
担任の教師に呼ばれ、黒板の前に立った明日香は話し出す。
「きゃほきゃほぅ、こんにちわっ！
あたし、虹ヶ丘小学校から来た星野明日香。
趣味はねぇ、流行りの場所に行くことなの。
遊ぶところい〜っぱい知りたいからぁ、みんなも遊びに行くときには、あたしも
混ぜてくれるとうれしいなぁ。
じゃ、そういうことでよろしくねっ！」
このときの早秀は、ただ"うるさい娘だなぁ"ってくらいにしか、明日香のことを
考えていなかった。
実際、明日香の声は普通の娘よりキーひとつ分くらい高い。
・・・
こうして、早秀の中学生活が始まった。
早秀が隣の席にいる明日香をちらちら見ていると、彼女は机の中に何冊もの情報
誌を入れている。どうやら、自己紹介で言っていたことは本当らしい。
そして休み時間になると、男子も女子も明日香のところに集まってくる。明日香
の仕入れてきた情報を聞きたいからだ。もちろん彼も、その集団に加わっていた。
で、情報の精度はどうかといえば、これが実にハズレなし。明日香の「いい」と
思ったものは、たいがい早秀の感性にも一致する。
だけど、彼女とて人間だ。打率10割というわけにもいかない。
一度、明日香を含めたクラスの仲間で、隣街にある「マウンテン」という喫茶店
に行ったことがある。なんでも明日香の話によると、ここはパスタがお勧めらしい。
しかし、出てきたパスタはといえば……。麺(というのか？)が原色で色づけされて
いて食べる気になれない上に、量がとんでもなく多い。
「30分以内に全部食べられたら勇者！」
と明日香はいっていたが、みんな半分も食べないうちにギブアップ――当然、早秀＆明日香も半分もいかないうちにフォークを置いてしまった。
・・・
そうやって一緒に行動しているうち、いつしか早秀の心に、――それまでの「女子のクラスメート」に対するそれとは異質の――妙な感情が芽生えていた。
クラスが一緒ということもあって、何かと共に行動する機会が多い。
授業のグループ発表、遠足、体育祭……。
その名簿にはたいてい、ひとつのグループに"丹羽早秀"、"星野明日香"の二つの
名前が並んでいた。
もちろん、編成上の偶然ということもあるだろうが、それが何度も続いて一緒に
行動しているうち、お互いに意識をするようになっていた。
一般論的には、こういう気持ちを俗に"恋心"というのだが、二人がそれに気づく
にはもういくばくかの時間が必要だった……。
しかし、お互いにその気持ちを、相手に知らせられるにはまだ条件が悪かった。
大概この時分というのは、お互いに恥じらいの気持ちが強く、その分、冷やかしの
対象にされやすい。もしも早秀が、明日香を好いていることが誰かに知られたら、
まわりの男子が
「わぁい、丹羽は星野に惚れとる」
とか言って回るだろう。
それが怖いのか、早秀は何かあって明日香と顔をつき合わせると、わざと乱暴な
言動をするようになっていた。一方の明日香も、元来、負けん気の強い性格の娘で
ある。早秀の"口撃"によく応戦してくる。
だが、それはお互いが相手の存在を認めた証拠でもある。
そんな二人を、他のクラスメートが見逃すはずもない。
何かにつけては、二人の関係を邪推してくる。
男子生徒が、
「丹羽。おまえ、星野のこと好きなんじゃないか？」
と聞けば、早秀は
「星野だって？ だっ、誰があんなチビ……」
といい返す。
一方の明日香も、クラスメート――もちろん女子――に、
「ねぇ、明日香。もしかして丹羽くんのこと……」
と聞かれると、
「だ、誰があんなウスラトンカチ……」
と、真っ赤になって打ち消す。
かくて早秀と明日香の関係は、"仲よくケンカしな"とエンディングで歌われる、
すばしこいネズミと三枚目のネコが主役のアメリカ製アニメのような様相を呈して
きた。
そして中学２年の秋。
早秀と明日香の関係に一大転機となる、ひとつの事件が発生した……。
――――――To Be Continued