第５話「明日香の決意」
期末試験を２週間後に控えた、ある夏の日のことだった。
（あ〜あ、またアイツと顔つきあわせるのかぁ……）
明日香は憂鬱な気持ちを抱えたまま、席についた。
そして、ふと隣を見てみる。
そこには早秀の机がある。が、その席の主である彼はまだ登校していない。
早秀の机を見ていると、明日香はまた、憂鬱な気持ちに襲われる。
その気持ちは、早秀と大ゲンカをしてから１ヶ月あまり、彼女の心を夜毎日毎に
さいなむものだった。
「……でね、それがまた傑作なのよ」
「へぇ〜、嘘!?」
明日香の耳に、クラスメートたちの会話が飛び込んでくる。
明日香は一瞬、耳をそばだてたが、すぐにそれがたわいもない噂話の類だと知る。
（噂話かぁ……。
そういえば、前はアタシとアイツが、いつもああいう噂の発信源だったよねぇ。
それがいまでは……。
早秀とケンカしてから、アタシ、なんかおかしい……）
そこまで考えて、明日香はふと、電撃に撃たれたような衝撃を味わう。
（や、やだ!?
なんでこんな時に、早秀のことが浮かんで来るの？
あんなヤツ、お調子者だし、デリカシーのかけらもないくせに……）
思わず、手のひらを口に持っていく明日香。
「……でさぁ、慶子。聞いた、丹羽くんのこと？」
「丹羽くんがどうかしたの？」
「丹羽くんったら、この１ヶ月人が変わったように勉強してるよねぇ。何かあった
のかしら？」
「……あぁそうそう。信行に聞いたんだけど、丹羽くんね、三磯学園狙ってるんだ
って。それも専願で」
「うそぉ、あの丹羽くんが三磯学園を。それも専願で？」
「みたいよ……」
その話を聞いて、明日香の心は激しく揺れた。
約１ヶ月前、「おたふく」で進路のことについて話したときのことを思い出した
のだ。
（まさか早秀、本気で三磯学園狙ってるの？
だったら、いままでのアタシに対する態度は……）
・・・
その日、明日香は学校を早退した。
朝の噂話を聞いて、早秀の顔をまともに見られなくなったからである。
「ただいま……」
家に入って、力なく言った明日香。
「あら、どうしたの明日香？」
普段帰ってこない時間に家に戻ってきた娘に、当然の質問を投げかける母親。
「ちょっと……」
そういった娘に、母親は自分の手のひらを娘の額に当ててみる。
「熱はないみたいだけど……、一応測ってみる？」
うなずく明日香。
「体温計は、ママとパパの部屋の鏡台の引き出しに入ってるわよ。
お店の方がひと段落ついたら、ママがおかゆ作ってあげるからね」
明日香は小さくうなずくと、部屋の方へ向かおうとする。
母親はその明日香を呼び止め、耳元に口を寄せると、
「無理をしちゃ駄目よ。女の子のからだは、大切なんだからね……」
と、ささやくように諭す。
母親＆父親の部屋。
明日香は言われた通り、体温計のありかを探してみる。しかし、お目当ての物件
――体温計はなかなか見つからない。
「どこが"引き出しにある"よ。
さては使った後、どこかに放り出してそれっきりかな？
まったくママったら、そそっかしいんだから……」
ブツブツと独り言をつぶやきながら、鏡台のまわりまで探す範囲を広げてみる。
と、そのとき。
鏡の裏に、なにやら白い物体がはみ出しているのを発見した。明日香はそれを引
き抜いてみる。
それはビデオテープだった。テープの背には「テキサス10」と書かれたラベルが
張ってある。
（なんでこんなところに"テキサス"のビデオがあるの？
しかも"10"って……。確か"５"までしかなかったはずよね、テキサスのシリーズ
って）
明日香は一瞬いぶかったが、もともとズル休みしてきたこともあって、
「暇つぶしにはなるか」
という気持ちでそれを部屋に持って行く。
ちなみに「テキサス」とは、いまから20年くらい――明日香たちが生まれるずっと前にブームになった、とある有名なアクション・スターが主演したボクシングもの映画のタイトルである。
部屋に入った明日香は、父母の部屋から持ってきた「テキサス」のテープをデッ
キにセットし、再生ボタンを押す。
最初は同期信号のテストパターンが画面に映ったが、すぐに暗転し、白い浮き文
字に変わる。
その文字は、こんな文章だった。
「堀内ゆり／奥まで見せて」
（え!? これ"テキサス"じゃないの？）
明日香は鳩が豆鉄砲を食らったような表情に変わる。
そうこうしているうちにテープが進み、また画面が切り替わる。
見れば、明日香よりもうひと世代上、19〜20歳前後とおぼしき女の子が、全裸で
男と絡み合っている。ベッドの上で男に組み敷かれ、喘ぐような声を漏らしている。
明日香は、精神のかなり深いレベルまで届きそうなその衝撃に、思わず両手で目を覆ってしまう。
しかし次の瞬間、明日香は目を覆ったはずの指を心持ち広げて、さりげなく視界を作っていた。
そうやって固まったまま、しばらく画面を凝視していた明日香だが、５分くらい
して正気に戻り、反射的な動作でイジェクトボタンを押してテープを抜き取った。
「もぅ、パパったらなんでこんなものを部屋に置いてるのよ！」
思わず悪態をついた明日香。
しかし、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。
（や、やだ……、何、このドキドキは!?）
不思議がる明日香。
彼女の脳裏には、さっき図らずも見てしまい、意識に強烈に焼き付いたあの映像
――男女のベッドシーンが浮かんでいた。
思わず意識の中で、その映像に映っていた女性を自分に置き換えてしまう。
ベッドの上、全裸で男に組み敷かれている自分。そして、自分を組み敷いている
男の顔は……、あろうことか早秀だった。
「あぁ〜もう、なんでそこでアイツ――早秀が出てくるのよ!?」
自分でも訳が分からなくなった明日香は、そう叫ぶとベッドに顔から倒れ込み、そのまま
眠ってしまった。
・・・
その夜。
早秀は夕食にコンビニで買ってきたインスタントラーメンと冷凍ピラフを食って
いた。というのも、いま、丹羽家に残っているのは早秀だけだからである。
武秀は小学校の修学旅行で京都に行っているし、両親は両親で、商店街の福引き
で「初夏の北海道４泊５日の旅」が当たったとかでそっちへ行っているからだ。
寂しい夕食が終わり、使った食器とゴミを流しに持っていこうとしたとき、玄関
のチャイムが鳴る。
「おいおい、こんな時間にいったい何のセールスだよ……」
小さく悪態をつきながら、玄関へ足を運ぶ。
ドアを開けてみると、そこには明日香が立っていた。アメリカンサイズの超大型
Ｔシャツを羽織っている。
「おわっ、ほ、星野!? こんな時間に、いったい何だよ……」
「早秀……」
「？」
「早秀……、あのね……」
消え入るような声になる明日香。
「ま、まぁ、こんなところで立ち話もなんだから、とにかく上がれよ。
今日は、うちに俺以外、誰もいないから」
早秀にそう言われ、明日香は丹羽家に上がり込む。
「コーヒーにするか？ それともコーラかウーロン茶？」
「……なんでもいい」
明日香がそういうので、早秀はコーラを二つのグラスに入れ、明日香のいる居間
のテーブルに持っていく。
「どうしたんだよ、星野？ こんな時間に、いきなり俺ん家訪ねてくるなんて……」
「…………」
明日香は答えない。
「おい。どうした、星野？」
「………………」
なおも答えない明日香。
天使が通過して、
「どうしたんだよ。黙ってたら分からないじゃないか？
俺は超能力者でもなんでもないんだから……」
早秀にそう言われ、明日香は小さく、消え入りそうな声で
「ごめんなさい……。
それだけが言いたくて、ここまで来たの……」
「え!? いま、なんて……」
驚く早秀に、明日香が更に続ける。
「今朝、友達に聞いたの。あなたが三磯学園、専願で狙ってるってこと。
あたし……、そんなこと、知らなかったから……。
あなたのこと……、誤解していたみたいで……」
そう言うと、明日香はやおら立ち上がり、自分の背中に手を回す。
３秒後、明日香の足元に何かが落ちる。見ると、それは明日香がついいましがた
まで身につけていたブラである。
明日香は早秀ににじり寄り、彼に抱きついてきた。
下着が取れているので、明日香のふくらみが早秀の体に密着する。
「早秀……。あたしが今、何を考えているか、分かる？」
明日香は上目遣いに早秀を見て、すがりつくように訴えてきた。
「……………………」
明日香の視線に射られ、後頭部がしびれて何も言えなくなった早秀。
二人の視線が重なる。
周囲の音は消え、二人の立つ空間だけが、見えない透明なカプセルに入り込む。
聞こえるのはただ、通常時の150％増しの速さで鼓動を打つ、ふたりの心臓の
音だけ……。
「あたし……、あなたと同じ学校にいく」
再び大勢の天使が通って、明日香が口を開いた。
「…………………………」
早秀は無言でうなずく。
「分かった………………。
本当を言うと、俺もどこかで、おまえに謝ろうと思っていたんだ。あのときの
こと。
だけど、照れくさくって……。
正直言って、俺のほうも、男が女に頭下げるのって、なんか、恥かしいって思いが頭にあって……。
それに……」
「それに？」
明日香は聞き返す。
「あのとき、模擬試験の結果が最悪で、先公に言われたんだ。
"このままじゃ、三磯学園は無理だ"って。
でも、おまえにあんな見栄を切っちまった以上、いまさら志望校変えられなく
って……。
それに、先公に思いっきり馬鹿にされたのが悔しくって、だったら三磯学園に
受かってやるって啖呵きっちまったんだ。
そんな啖呵を切っちまった以上、いまの俺の頭じゃ猛勉強しなきゃならないし
……。
そしたら、いままでみたいにおまえと遊んでいる時間なんてないって思って……あんなことを……」
ひとことひとことを、かみしめるように話す早秀。
「それじゃ……、早秀……」
「許してくれ、星野！
今度のことは俺が、俺が悪かった……………………」
早秀の目には、涙がうっすらと浮かんでいた。
「ううん、いいの。
アタシは、早秀が分かってくれたらそれでいいの……」
「そうか……、そうか……。
ありがとうな、星野…………。
でも……」
「でも？」
「その前に……とにかく……ちゃんと服を……。
後ろ……向いててやるからさ」
早秀がそういうので、明日香は
「うん、ありがとう………………」
と小さく返事すると彼から離れ、床に落ちたブラジャーを手にとってもう一度
つけた。
・・・
それから約８ヶ月後。1998年３月某日。
今日は三磯学園の合格発表の日である。
「え〜と、俺の番号、505、505……」
早秀は掲示板に張り出された大きな模造紙を見ていた。
そこには大きな文字で
「三磯学園高校 1998年度入学者選抜試験 合格者一覧」
という文字が書かれ、その下に、合格とみなされた受験者の番号がリストアップ
されている。
481……485……489……494……499……502……。
視線はだんだん、自分の番号が書かれていると思われる辺りに迫る。
そして……、
505。
早秀はその番号を確認すると、
「よっしゃぁぁぁぁぁぁぁっ！」
右手でガッツポーズを作ってそう叫んだ。
「ねぇねぇ、早秀、早秀！」
耳元に聞き慣れた声が聞こえる。明日香だ。
声のトーンからだいたいの察しはついたが、早秀はその声の方に振り返り、
「星野、おまえもか？」
とたずねた。明日香は大きくうなずいて、
「うんっ！ アタシの番号もあったよ！ 518番！」
と言った。
見ると、彼女の言葉どおり"518"という数字もそこにある。
次の瞬間、
「ヤッター！」
ふたりは思わず抱き合って、叫んでいた。
が、さらに次の瞬間、
「イテテテテ……、足、踏まれた……」
二人の横でうめき声がする。
その声のした方に顔を向けると、どこか風采の上がらなさそうな少年が、痛みに
顔をしかめていた。気まずくなって頭を下げる二人。
のちに二人は、縁あって同じ学校に入ったこの少年――主人 公――と共通の友
人になり、さまざまな出来事を体験することになるが、それはまた、別の一話……。
――――――To Be Continued